たまに映画、展覧会、音楽など。

絵に刻む

絵を観るのと、本を読んだり映画を観たりするというのは、
全然違うと思う。

絵を観るのは、絵から何かをもらうだけじゃなく、
絵に、自分の何かを刻む感覚に近い。

部屋の片隅に飾ってある絵は、
とある洋画家が描いた男女の絵。
冷蔵庫近くに張ってあるカレンダーの原画を描いた人と同じ人だ。
静物も風景も建物も描く作家。
少し暗くて哀しくて、形もデフォルメされてて、
ねじれたり歪んだり曲がったり。

部屋で一人でいるとき、大抵その絵を観ている。
考え事をしているとき、
悩み事をしているとき、
朝起きてぼーっとしているとき、
一人で夜、お酒を飲んでいるとき・・・。
私の友人みたいなもので、
私のすべてを共有されている感じさえする。

その絵は額から出ることなく、
(つまり、ある程度の距離を保ったまま)
これからの私の人生に存在し続ける。

そう思ったら、どんな絵を部屋に置いて、
愛して、日々過ごしていくかということは、
自分がどんな人間なのかがよくわかる。

食べ物が人の身体を作るように、
絵が、音楽が、言葉が、人の心を創る。

好きな人と生きていきたいように、
好きな絵と生きていきたい。

「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー展」(横浜美術館)

ロバート・キャパゲルダ・タロー
@横浜美術館

沢木耕太郎『キャパの十字架』をようやく読み終え、美術館に行けた。

ゲルダ
同じ女性として、ゲルダの生き方は衝撃的だけど、
その激しさが作品にも見てとれた。
26歳で取材中に命を落とし、
以来、キャパの恋人としか評価されてこなかった彼女が、
ようやく今回再評価。
沢木の本を読んでも同様の感想を持った。


キャパ。
今回なにより感動したのは「崩れ落ちる兵士」でもなく、
ノルマンディー上陸の写真。
腰まである海に身を投げ出し、
ドイツ軍からの銃撃を避けながら、
振り返っては上陸する兵士を撮影した。
ちょっとぶれてる
(後にそういうタイトルの自伝を出した)
写真だが、その場の混乱がよく見てとれた。
NHKの「その時歴史が動いた」を観たときの記憶が蘇る。

二人が共に取材したスペイン内戦に時を戻せば、
浮かぶのはピカソの「ゲルニカ」。
間違いなく「崩れ落ちる兵士」と共にスペイン内戦を代表する作品だろう。
ピカソもキャパの撮影した写真に写っていた。

ピカソだけじゃない。
ヘミングウェイも写っていた。
彼も記者としてスペイン内戦を取材し『誰がために鐘は鳴る』が生まれた。

そんな時代だ。
二人の写真から忘れていた「戦争」をあらためて感じた。


美術館をあとにしてから思い出した。
私が昨年書いた画廊の物語の舞台設定に
第二次世界大戦を取り入れたこと。
そもそも、小学校時代に書くことを始めたきっかけが
戦争時に書かれた『アンネの日記』だったこと。
大学時代、どうしてもアウシュビッツに行きたくて、足を運んだこと。
大学のときに創りたい雑誌のテーマのひとつが戦争だったこと。
2年前、広島の原爆ドームを歩いて、
体験者に話を聞いたこと。
多分、私のルーツのひとつはこの「戦争」にある気がする。


他にも書きたいことはあるけれど、とりあえず。

エル・グレコ展(東京都美術館)

2013年春 展覧会まとめ(2)
エル・グレコ展

さてと。

先輩と後輩の展覧会も観てくれたかね? 
ラファエロ先輩(ルネサンス)、ルーベンス君展(バロック)。
東京では今、いろんな西洋美術展覧会がおこなわれていて、
私たちのような過去の芸術家からしてみれば、
懐かしい人たちと会える同窓会のようだ。

それにしても、二人とも日本では人気があって、
私の絵は好かれていないらしい。
そこで、今回は先輩後輩の前に、私の展覧会の話を少しさせてもらおう。

まず、勘違いしないでいただきたいのは、
エル・グレコという私の名前は本名なんかじゃないということ。
グレコ=ギリシャ人の、という意味、エルはスペイン語の冠詞。
つまり、私の名前とはまったく関係がない。
ギリシャで生まれスペインに渡り、そこで仕事をしたのだよ。
ヴェネチアで修行もしたがね)。
スペイン三大画家「ベラスケス、ゴヤ、グレコ」なんて言われるけれど、
私に言わせれば、ただの職場だ。
その理由はのちほど理解してもらえるだろう。

自分で言うのもおかしな話だが、
私の絵は特徴がありすぎて
「ああ、あの絵でしょ」と言われることが多い。
絵の美しさは、そんなに簡単なものではない。

例えば、この絵。「聖衣剥奪」1605年頃

キリストを一番上に配置するのではなく、真ん中に配置している。
これがちょっとスキャンダルになったのが、もう今となっては懐かしい。
キリストより上にいる群衆なんてありえないと、国家からのお達し、減給。
そもそも当時、聖衣剥奪の場面を描く画家もいなかったのだから。

だけど、私はギリシャ人だ。
「新訳聖書」を原文で読み、
より内容を理解した上でこの絵を描いたのだ。


さらに、この時代のスペインがどんな風だったか、君は分かるかね?

1580年代から1600年代初頭はスペインの黄金時代。
大航海時代を経て、アメリカを植民地化。
その一方で、宗教改革、ウィーン包囲、そして1588年の無敵艦隊の敗北。
スペインはフェリペ2世のもとで激動を駆け抜けた。
そんな不安定な時代だ。
他国は宗教改革を終え、プロテスタントが台頭していた。
なんとなくわかるだろう、こういう絵を描く私の気持ちが。

神という見えざるもの、現世という見えるもの。
この二つを両方描くということに私が心血を注いだのだった。
前の時代の絵は、キリストを崇めるために描いた。

しかし私は違う。見えないものと見えるものを同時に描き、
神と民衆の距離を近づけたかったのだ。
現実と架空の融合、失望と希望の世界。


***
ねえ、グレコさん。
あなたは視覚を操るのが上手なんだね。
最後の部屋にあった「無原罪のお宿り」。

この絵もきっとそうなのよね。
マリアさまを中心に鑑賞者の目線が絵の隅々まで動いちゃう。
くねくねしてるもん、それに天使だって極端に小さいし。
この絵を見たときに思ったの。
ああ、この絵は祭壇に架かられるべくして創られた絵。
自然とひざまずきたくなる絵だって。
だから日本人の皆が、あの部屋に入ると、
自然に腰をかがめたり座りこんだりしてあの絵を見てるのよ。


今まで日本の美術館で、
床に直接座り込んでいる人たちなんて見たことなかった。
でも、そうさせるだけの力が、この絵にはあった。
それにかがんでみると、
長い身体がよりダイナミックに見えるってこともわかったわ。
本当に天に昇っていくように。流れているみたいだった。
うん。私は結構好きかも、グレコさんのこと。


というわけでエル・グレコ展 おすすめ度★★☆

4月7日まで、上野の東京都美術館にて。
ルーベンス展、ラファエロ展と合わせると、
ルネサンスマニエリスムバロックをおさらいできる良いチャンス。

クラコレ展(三菱一号館美術館)

クラーク夫妻が集めた印象派前後の作品。
とりわけルノワールの収集に熱心だったみたいで、
日本にあるルノワール作品とは質が違う。
見処はルノワール部屋の10数点。
他にも、コローからピサロシスレー、ドガ、カサット、モリゾなど。

作家に関係なく青系統が多かったのはクラーク夫妻の趣味?

コローの人物画が良かった。
コロー↓

ルノワール

これもルノワール

ただ気になったのは、無名の画家たち。
当時は有名だったのだろう。
ただ、そういう無名画家に限って、
他の作家と変わらない絵だったりする。

それで思い当たった。

日本のホキ美術館みたいだ。
写実絵画ばかりを展示しているホキ所有している作家のうち、
一体何人の名前が残るだろうか。
写実絵画が悪いわけではないし、
美術であることに変わりないけれど、
職人気質だけでは名は残らない。

クラーク夫妻の目は確かだったと思う。
5月26日まで、三菱一号館美術館
オススメ度★★★
http://mimt.jp/clark/top.html

「会田誠展」(森美術館)

会田誠展「天才でごめんなさい」@六本木森美術館

会田クンって、デッサンできるのよね。
もちろんそれだけじゃないわ。
なんていったってカオもいいし、頭もいいんだから。

え、どういうことかって?
アンタ、展覧会観たのにわからないわけ?
アンタバカァ?
ちゃんとセツメイしてあげる。

まず「あぜ道」ね。

こういう絵ってね、デッサンがきちんとできるヤツじゃないと描けないのよ。
大学院に進んだときに“きちんと描け”と教授に言われて、さらっとできちゃうのが
会田クンのすごいところ。
でもデッサンができちゃうヒトほど、コンセプチュアルにイっちゃうんだって。
まさに会田クンじゃない。
ちなみにこれ、美術の教科書に載ってるからね。並大抵の評価じゃなくてよ。


「ジューサーミキサー」なんて最高よね。

群像画ってどんだけ〜って思うけど、やっぱずば抜けてる。
何も知らないアナタのために教えてあげるけど、
群像画描くにはねぇ、ただ漫画のマネゴトすればいいってわけじゃないの。
まず素描力ね。いろんな年代の人間をいろんな角度から描かなくちゃ。
次に構成力。秩序に、時にそれに抗いながら画面の構築するチカラ。
それからイメージ力。夢想する力、想像する力っていうのかしら、
素描力も構成力もどうにか技術でカバーできるけど、この想像する力がないと、
ミリョクある絵なんて描けやしないわ。
さっきの「あぜ道」、これでアンタちゃんとわかった?
ちゃんとセツメイしてあげる。
東山魁夷っていう巨匠日本画家「道」を借りパクしてんのよ。

つまり、、、
画家としての能力を最大限に使う必要があるのが群像なわけ。
わかる?

とか懇切丁寧に説明しても、まだピンとこない?
ほんとバカ。今までの絵画を思い出してみなさいよ。
この前TVでとある美術館の学芸員クンが言っていたわよ。
西洋美術史においては、群像の描ける画家を最上位に位置づける」ってね。
まあこれは嗣治クンの特集番組なんだけどね。
黒田クンは知ってるわよね?
彼なんか、自分の絵は一種のスケッチと見限っちゃって、
「構想画の描ける画家」との思いから画塾を開いちゃってる……。
私の好きな画家にシゲルってのがいるんだけど、
彼の絵なんかも群像のトップよね。
なつめっちなんかも小説で引用してたじゃない。
草枕」だっけ、「それから」だっけ、まあそのあたりのどこかにね。

あっと、昔話をしすぎたようね。
まあそんなこんなでインスタレーションとか何とかが流行ってきて、
今またナラティブなドローイングがキテる。
ひろぉい目でいうと、ウィーン幻想派からはじまって、
日本ではイラストレーション、漫画、アニメ。
ああそう言えば、三鷹にあるジブリ美術館
あそこで宮崎駿の制作部屋を見て笑ったわ。ナラティブだらけじゃないの。
あそこにもシゲルの話があったわ。
村上隆クン、会田クン、山口晃クン……彼らはそういったものを見ておっきくなったのね。


ごめーん、ついつい長話。
で、会田クンの自称「天才でごめんなさい」。
ちゃんとセツメイしてあげる。

んもう、笑わせるんじゃないっていうのよね−。
ビン・ラディンがいるじゃないの。何やら小さなTVから語ってきてる。
何これ??って思ってみてたら、会田クンあなたじゃないの。意味わかんない。
その次の部屋で、3人の西洋人画家が絵を描く映像。
あれは「ピカソ―天才の秘密」のオマージュね。
そのくらい一目でわかったんだけど。
でもよく見ると、その3人の西洋人画家って、また会田クンが演じてるじゃないの。
んもう、意外と西洋人っぽい顔してるのね、はじめ気づかなかったんだから。
やっぱり西洋人になりすませられるあたりイケメンな証拠よね。
思わず大笑いしちゃったわ、周りの人、誰も笑ってなかったけど。
観客と作家にあんなにも溝があるの観たの初めてだったわ。
KYって会田クンのことじゃないの?

でもやっぱり会田クンは会田クンだよね。
18禁の部屋もそうだけど、やっぱりどこか「あぜ道」を冷笑してる。
キングギドラもわんちゃん絵も至るところにあるエロ画もそうだけど、
なぁんかそわそわしてて、空白を埋め尽くしているような感じなのよね。
自分で自分を批評して落ち着きのないこと。
それよりも、絵そのものの深化はしないといけないんじゃないの?
あとお酒とたばこもほどほどにしなさいよ。赤提灯は閉めた?
あのよくわからないサポーター募集もやめなさいってば。
なにここサーカスなの?
 
サーカスといえば、「考えない人」は最高だったわ。

ちゃんとセツメイしてほしいの?このおにぎりマンを?
弥勒菩薩の手つきを? にょろにょろを?
西洋風の日本人で宗教どれだっけー的な日本人じゃない。

あ、サーカスでまた思い出したけど、
この展覧会31日まで森美術館でやってんの。
しかも、23、24日は六本木アートナイトで朝6時まで快感…開館だってさ。
劇もするみたいよー、「劇団☆死期」っていうの、よく聞く名前じゃない。
え、アンタまた行くの? アンタバカァ?

演劇「ねこねこでんわ」(小劇場楽園・下北沢)

「解釈は自由である」
「物事は底辺からはじまる」

そんな言葉が飛び交う演劇を見た。
まさに言葉が“飛び交”っていて、劇中ずっと何かしら言葉が発せられていた。
面白いのは、登場人物の台詞ひとつひとつにそんなに意味はなく、
言葉の乱取り稽古に近いような、
シュールな演劇にふさわしい、台詞の掛け合いが続いた。
意味(意図)を考えようとすると、展開についていけなくなる、
なんともシュールな1時間半。

でも、はっとする言葉がいくつかあって(それが冒頭の台詞)
そんな台詞は劇中に何度も繰り返され、観客の頭の中に刷り込まれる。
家に帰ってふと出てきた言葉がこれだった。

つまりは、人と人とのコミュニケーションも
実はそんなに言葉が意味をなしていないのかもしれない。
言葉は記号であって、自分が発した瞬間、自分のものではなくなる。
相手の受け取り次第で、言葉にどんな形にも姿を変えることができるのだ。
刺す言葉になったり、救う言葉になったり、
全くトビラを開かない言葉になってしまったり。
言葉というのは思い通りの形のまま、相手に届かないのだと、今回改めて分かった。

メールやパソコンが普及し、人類は言葉を以前より頻繁に使うようになった。
特に書き言葉。つまりは文章を。
でもそれは、あくまで言葉の連なりでしかなく、本当の文章ではないと思う。
あくまで記号上の言葉、伝える手段でしかない言葉。
文学を創る人たちは、言葉を最大限に表現する手段として操ろうとしている。
そんなふうに言葉を使いたい。
ただ、言葉の瓦礫をやみくもに破片をみつけてつなげるのではなく、
言葉の原石を自分で見つけて時には磨いて、ここぞというときに出す。
そんなふうに言葉を使いたい。

「アントニオ・ロペス展」(Bunkamura)

アントニオ・ロペス展を鑑た。
スペインで活躍中のリアリズム作家。
日本で今流行に極みみある「写実ブーム」だが、いったい写実とは何か?を
問い直す最高の機会を、bunkamuraがつくってくれた。

ロペスの作品は決して写真ではない。
確かに画像で鑑ると、写真のようにリアルに見えるけれど、
本物を鑑るとむしろ、絵っぽさが引き立っている。

リアリズム(写実)って、そもそも何?見たまんまを描くことか?否。
「視覚的な意味で見えた通りに描く表現技法としてのリアリズム」と
「精神的な意味で物事の真実に近づこうとする態度そのものとしてのリアリズム」
があって、その整理をきちんとしないと話は始まらない。
日本の画壇はそこをはき違えている人が多い。
ロペスの描く絵は後者だし、意図的に対象を“変容”させている。
変容させることによってそこに宿る秘密や夢を描いている。
あくまでロペスの絵は主観的だ。
歴史を振り返れば、ベラスケスは現実にそんなふうに解釈は加えない、
だからベラスケスは前者ということになる。
高橋由一のあの鮭は、前者か後者か。そしてそれ以降の日本におけるリアリズムを
いったい誰が整理してきたのか。
今の日本の写実迷走をもう一度見直す鍵はロペスの作品にあるのは間違いない。

こんなことをロペスが言っていた。
「最初に受ける感動を表現する能力は、現実の世界を正確にコピーする技量や正確さとは別物だ」。
見たままではなく、そこに自分のフィクションを盛り込むということ。
むしろ、作品よりもその対象といかに向き合うかが大事だということ。
例えば花なんかは5分後には姿が変化している。どんな花だろうと確実に。
だから植物の一瞬をとらえることはできない。だから画家はそこに向き合って結果得た何かを取り入れる。
それが“変容”である。
みずみずしさを取り入れたり、太陽のまぶしさを取り入れたり、重みを取り入れたり。

絵を鑑るときに、自然とその作品の「色彩」に目が行くけれど、本当に大切なのは、
むしろ、「形」や「ボリューム」そして「対象間にまたがる距離感」。
作品と対象との間をゆっくりと行き来すること、それが絵を鑑るってことなんだと。
旅をする感覚に近いと思う。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/13_lopez.html