たまに映画、展覧会、音楽など。

恩田陸『蜂蜜と遠雷』

恩田陸『蜂蜜と遠雷』

ひたすらに音楽が流れていく小説。
国際ピアノコンクールの予選から本選までが、
息つく間もなく描かれている。
コンクールは1人あたり、10数曲を弾く。
次から次へとクラシック音楽が文章で描かれ、
音となって聴こえるのは、
私が知る限り、この小説以外になかったように思う。
知っている曲、知らない曲、関係なく、
主人公たちのもつ個性や才能に合わせて、
音楽がきらきらと文字上で踊っているよう。
「音の粒がきらきらしている」と、よく音楽界ではいうけれど、
ここでは文字の上で、音楽がきらきらと輝いていた。
バッハの平均律ショパン、ベートーベンから、
リスト、ラフマニノフバルトーク、サティ。
音楽を文字で描写するとこうなるのか、と舌を巻いた。
知っている曲でさえ、はじめて聴くような感覚になって不思議。
さらに素晴らしいのは、主人公たちの心(個性)を通じて、
その音楽が流れているところ。
そう、主人公は1人ではなく4人いるのだけれど、
彼らは育ちも才能もばらばらで、
だからこそ、奏でる曲に彩りが生まれる。
コンクール中、1曲だけ、全員が同じ曲を弾く審査がある。
宮澤賢治春と修羅』と同じタイトルのこの曲は、
日本人作曲家による森羅万象を詠った曲。
恩田陸の才能がもっとも発揮されたのはこのシーンだった。
曲中カデンツァ(弾き手の自由に弾きなさい、楽譜なし)
がある。
楽譜にあるのはただ、「自由に、宇宙を感じて」。
三者三様の春と修羅。春だったり、修羅だったり、宇宙だったり。
音楽を聴いて宇宙を感じるように、
彼からのカデンツァで宇宙が見える。
音楽(歌とも言い替えることができるけれど)というものは、
かつては記憶のためだったのだと思う。
叙事詩という歴史を残すための記録のために歌い、継がれてきた。
音楽は、それが原点。そしてやがて変質していく。
「その時何が起きたか」ではなく「その時何を感じたか」が、
歌われるようになった。
主人公たちの弾くピアノも、
たとえ数百年前に作られた曲であろうとも、
彼ら自身が感じたもの
──つかの間の生のあいだに体験する、様々な感情や心情──
を歌っているのだと。
ベートーベンを弾くと、彼女自身の人生の苦悩と喜びが見える者、
他の弾き手が弾くピアノにカデンツァで返歌をする者、
春と修羅」で、母なる大地を見つける者。
読んでいくうちに、主人公のなかに応援したくなる人物に出会えるはず。
そしてその主人公の選んだ曲を、実際の音源で聞けば、
小説で体験できる以上の体験がそこにはあって、
より小説が立体的に見えてくる。
そんな二重三重に音楽を楽しめる小説だった。
(欲を言えば、ラストが尻切れトンボだったのと、
 タイトルがいまいち解せなかったのが、残念……)。
***
余談。
この本を読む前に平野啓一郎『マチネの終わりに』を読んでいたせいか、
$同じ音楽にまつわる小説でもあり、どうしても比べてしまう部分があった。
直木賞恩田陸芥川賞平野啓一郎。面白いくらい、世界が違った。
平野啓一郎はどちらかといえば文章で魅せるタイプで、
ストーリーはあくまで作品の輪郭に過ぎない。
実際『マチネ…』よりも、『蜂蜜…』のほうがストーリーははるかに面白い。
『蜂蜜…』は、「このあとどうなるんだろう?」と読者とどんどん引きこんでいく。
実際に、何度か怖々ページを捲る場面があった。(特に合格発表の場面!)
それゆえ、悲しいかな、速読で読めてしまう部分もある。
むろん、500ページの2段組みをあっという間に読ませてしまうのは、
作家としての技量ゆえなのだけれど。
音楽の本にひたった数週間は、とても幸せでした。

映画「エベレスト」

映画「エベレスト」

最近よく山に登る。
それに伴って、本や映画も山に関するものが多くなってきた。
今話題の映画「エベレスト 3D」。
1996年のエベレスト大量遭難事故をもとに描かれた今作は、
極限状況での人間の描き方や、
もはや人間にはどうすることもできない荒れ狂う自然の過酷さが
密に表現された映画。
5,000メートル程度でも、少し歩くと息が切れ、
寝ている姿勢からいきなり起き上がると目眩をおこす。
そして8,000メートルともなると、
酸素ボンベが無いと正常な判断をとることも容易ではなくなり、
立っているだけで死に近づいていく。
この高度"デスゾーン”の表現はピカイチだ。

  • 26度の雪山の斜面で「熱い」と言って服を脱ぎ出す人、

一歩ふみ間違えただけで、音もなく滑落していく人、
空になった酸素ボンベを必死に吸う人…。
そんな人間たちとは関係なく、自然は荒れ狂う。

エベレストの鋭角な山頂が、空に突き刺さっているように見えて、
その画が今でも鮮明に思い出される。

そもそもこの映画は、『空へ』という本がベースになっている。
この事故に遭遇したアウトドア雑誌ライター・クラカワーが体験を綴った本。
遭難小説というよりも、
エベレストでのガイド付登山が流行し、事件の原因ともなったと触れていて、
ジャーナリズム的要素が強くて、読み応えがあった。
そういう意味ではやっぱり
ハリウッド映画はドラマ仕立てになっていた気がする(仕方ないけど)。
そして、キャストの着ている服がほぼNorth Faceだったのも気になった…
(少しマムートがあったくらいでモンベルなんてひとつもなかった)。

***
現在のエベレストは、
昨年4月に16人が亡くなる雪崩事故、
今年はネパールの地震で20人以上が死亡。
商業目的での登山は禁止され、
さらに今年9月には標高6,500メートル以上の
高峰の経験のない登山者の規制も発表された。
エベレストの遭難事故から20年。
山の姿が、また変わろうとしている。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』


何が異色の小説なのかというと、物語の世界観がわからないまま物語が進む点。
その謎は、主人公たちの成長にあわせて理解できるところだけが、
大人によって意図的に(!)少しずつ明らかになる。
その片鱗を辿りながら読み進めるのは初めての感覚だった。
主人公たちと一緒に少しずつ全てを理解していく。
同じ思考回路、同じ勘違い、同じ憤り、同じ安心感。
どういうこと?という疑問と
最初からそうだからという納得感が錯綜していく心地だった。

読み進めながら、ふと、
わたしたちが当たり前だと思うことも、
その世界観を作ったのは小さな頃の体験や教育、記憶なのだという、
今更抗うこともできないものだという事実が否応なしに思い出され、
物語の重みが増す。

「…無慈悲で、残酷な世界でもある。そこにこの少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱き締めて、離さないで、離さないでと懇願している。わたしはそれを見たのです…」(本文より)

わたしを離さないで、というタイトルの意味は
きっと何重にも重なっている。
何から離されたくないのかーー、
それがこの物語の骨格であり、この物語の悲しさなんだと思う。

ドラマ放映はどんなふうなのか知らないけ
子ども時代から描くからこそ、共感できる物語。
久しぶりにお風呂にまで持ち込んで読んだ。

平野啓一郎 『本の読み方 スロー・リーディングの実践』

平野啓一郎
 『本の読み方 スロー・リーディングの実践』

「本を読む」とはどういうことか。

本屋に行けば、速読法の本が溢れている。皆、より多くの本を手にとろうとしている。
それもひとつの読書法であり、否定するつもりない。
だが、本を読むことはだ単に情報を得ることだけなのか?
速読は自分に都合の良い理解だけではないか?
そもそもーー小説を速読することに、一体何の意味があるのか?

平野啓一郎「小説にはノイズがある」と書いている。
例えば恋愛小説でノイズを気にせず、骨格だけを切り取ってしまえば、
ただ単に二人が出会ってくっついて、で終わってしまう。
本来の恋愛も、そうであったとしても、その内容にこそ意味があり深みがある。
文体、構成、内容、場面展開、いろんな視点から読み解く、
さらに言えば、「作家の視点」にたって読み解くことで、小説の細部が見えてくる。

それを、作者はスロー・リーディングと呼んでいる。
つまり、遅読でも再読とも違う、時間をかけて豊かな時を刻む読書のこと。
今は知りたいことがあればネット検索をすれば良い時代だ。
小説のあらすじを知りたければ検索すれば良い。
それ以上のものを小説から得るにはどうすれば良いか、それを得ることができるのががスロー・リーディング
(もちろん、小説以外にも十分通用する)。

いくつかの例を挙げてみる。たとえば「書き出しの一文」に注目する。

「橋」フランツ・カフカ
「私は橋だった。冷たく硬直して深い谷にかかっていた。」

こんな冒頭、カフカらしい。
「私は橋だった」……だった? じゃあ今は何なのか? なぜ橋が話すのか?
なぜ「冷たく」硬直しているのか、それが連想するものは?
私という橋が、深い谷にかかっている。なぜ「深い」のか。ここからラストを喚起させる仕組みがある。
続きは平野啓一郎が『スロー・リーディング』にて。

自分でやってみるとこうなる。

舞姫森鴎外
「石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」

「積み果てつ」=積みおえてしまった=完了形……小説の冒頭なのに完了形? なぜ?
完了しているのであれば、冒頭からこの説明はなくとも良いのでは?
ふと気がつけば、主人公が全く気がつかない間にすっかり荷物が積まれてしまっていた、
つまり、主人公がそれほどまさに重い沈んでいたことがわかる。
ここから、この小説のテーマが既に浮かんでいるといえる。
何よりも、冒頭から「小説の余白」(ふと気がつくと…という意味)を使っている。
まさに、森鴎外の巧みな文章力とはまさにこのこと。

ほかにも様々な手法があり、平野啓一郎は様々な小説を引用しそれを紹介している。
ざっと自己流でまとめると以下のような内容だった。

*助詞や助動詞の使い方に注目する(作家毎に大きく違う)
*感情の踊り場……言葉にできない感覚的な読みに注目する(余白的部分、状況の変化など)
*情景の変化……登場人物の入れ替え、時間帯、場所から本題が見えてくる
*条件をかえてみる……創造的な読みが可能になる
*書き出しの一文に注目する
*形容詞、形容動詞、副詞に注目する……小説全体を象徴したり、イメージさせたり、連想の基準となる
*登場人物を比較する(状況や関係性)
*思想の対決に注目する……ポリフォ二ー小説(バフーチン ロシアの批評家)
*様々な小技に注目する……語尾、間のとりかた、風景描写、心理描写
*他作品と比較する……作家毎、テーマ毎(金原ひとみ蛇にピアス』と谷崎潤一郎『刺青』
*漸増法に注目する……小説のクライマックスなどの数字による効果
*比喩に着目する……重層的なイメージが隠れている

上記の内容を意識しながら小説をマーキングしてみて驚いた。
作者の意図がふんだん見えてくる。
新書や専門書にかぎったものではなく、小説にこそマーキングに意味があるんだとわかった。
作家の巧みな技を知ることで、自分の文章力があがるだけではなく、
自分がプレゼンをしたり、人と話をしたり、話を聴くしたりするときにも大いに応用が効く。


はじめて知ったスロー・リーディング
豊かな時間と思索の時間が、自分を幸福にさせてくれる。やっつけ読書には絶対にない時間。
そして平野啓一郎の本に対する真摯な姿勢に感銘を受けて、
少し背筋をのばして、新鮮な気持ちで本と向き合う気持ちにさせてくれた。

「フランシス・アリス展」(東京都現代美術館)

フランシス・アリス展を観た。
ちょっとはっとした。

砂塵を巻き上げる竜巻の中へカメラ片手に突入していく映像。
20分以上はあった。
その部屋に入ると、大きなスクリーンの前に、枕と敷布団が何個も用意されている。
つまり観客に「どうぞ寝ってころがって観てください」というわけ。
事実、みんなどこにどっこらしょと頭をのせ、足をのばして、
まるで家の中にいるかのように観る。
でも真っ暗な広い空間の中で、布団が無作為に並べられているのってなんか、、、ちょっとね。。
で、その映像が何かというと、竜巻の中に突入していくんだけど、
確かに下からの目線だから、寝て観たほうが臨場感がますのね。
いや、しかし、座ってみるんじゃないって、新鮮。

そうか、いつも美術館で絵を観るときって、歩き回って観ているけれど、
それって実は最善じゃないと思う。
たまーに休憩用の椅子があるけど、そこまでがんばって絵を観ないといけない?
だから美術館って映画館よりも敷居が高いんじゃない?

画廊なんかだと座ってみれるし、コーヒー飲みながら観れるし、お菓子もあるし、
ワインが出てくるときだってそんなに珍しいことじゃない。
事実、私はお酒片手に絵を観るのがとても好き。
身体がリラックスすれば、絵の見方もかわる。
そうだよ、立って絵を観る必要なんかない。
たまには座って、寝っころがって、しゃがんで、ひざまずいて観たっていい。
美術館もそんなふうにベストの状態で絵を観るようになればいいのに。
http://www.mot-art-museum.jp/alys/

「アントニオ・ロペス展」(Bunkamura)つづき

アントニオ・ロペス展を鑑た。
スペインで活躍中のリアリズム作家。
日本で今流行に極みみある「写実ブーム」だが、いったい写実とは何か?を
問い直す最高の機会を、bunkamuraがつくってくれたと思う。

ロペスの作品は決して写真ではない。
確かに画像で鑑ると、写真のようにリアルに見えるけれど、
本物を鑑るとむしろ、絵っぽさが引き立っている。

リアリズム(写実)って、そもそも何?見たまんまを描くことか?否。
「視覚的な意味で見えた通りに描く表現技法としてのリアリズム」と
「精神的な意味で物事の真実に近づこうとする態度そのものとしてのリアリズム」
があって、その整理をきちんとしないと話は始まらない。
日本の画壇はそこをはき違えている人が多い。
ロペスの描く絵は後者だし、意図的に対象を“変容”させている。
変容させることによってそこに宿る秘密や夢を描いている。
あくまでロペスの絵は主観的だ。
歴史を振り返れば、ベラスケスは現実にそんなふうに解釈は加えない、
だからベラスケスは前者ということになる。
高橋由一のあの鮭は、前者か後者か。そしてそれ以降の日本におけるリアリズムを
いったい誰が整理してきたのか。
今の日本の写実迷走をもう一度見直す鍵はロペスの作品にあるのは間違いない。

こんなことをロペスが言っていた。
「最初に受ける感動を表現する能力は、現実の世界を正確にコピーする技量や正確さとは別物だ」。
見たままではなく、そこに自分のフィクションを盛り込むということ。
むしろ、作品よりもその対象といかに向き合うかが大事だということ。
例えば花なんかは5分後には姿が変化している。どんな花だろうと確実に。
だから植物の一瞬をとらえることはできない。だから画家はそこに向き合って結果得た何かを取り入れる。
それが“変容”である。
みずみずしさを取り入れたり、太陽のまぶしさを取り入れたり、重みを取り入れたり。

絵を鑑るときに、自然とその作品の「色彩」に目が行くけれど、本当に大切なのは、
むしろ、「形」や「ボリューム」そして「対象間にまたがる距離感」。
作品と対象との間をゆっくりと行き来すること、それが絵を鑑るってことなんだと。
旅をする感覚に近いと思う。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/13_lopez.html

「夏目漱石の美術世界展」(東京都藝大美術館)

夏目漱石の美術世界展」を鑑た。
@藝大美術館
http://www.tokyo-np.co.jp/event/soseki/outline.html

まさに漱石脳内美術館。
「吾輩」の装丁から始まり、
漱石が留学時代に見た
ターナー、ロセッティ、
ジョン・エヴァレット・ミレイ
サルヴァトール・ローザ……。
大学時代によく見た懐かしい名前がずらり。

中盤では『草枕』『三四郎』などから、
モチーフになった作品の紹介。
小説の引用部分もあるので、
小説を知らない人でも楽しめる。
黒田清輝和田英作が、
登場人物のモデルだなんて知らなかった。

そして何より漱石の美術傾倒ぶりにびっくり。
青木繁岸田劉生、萬鉄五郎
……この時代、まさに洋画壇の全盛期!
漱石の芸術論や数々の手紙をみれば、
彼らと深い親交があったことが分かり、

美術と文学が近い時代だったんだと改めて実感。
いいなあ、この時代。

実は漱石自身も絵を描いていて、
最終コーナーには自筆作品と原稿があった。
文学展と美術展のはざまと言うのか、
どちらかの知識がなくとも楽しめるというのがよい。
こういう展覧会はもっとあっていい。

村上春樹の小説に音楽が多いように、
江國香織のエッセイに絵画に関するものが多いように、
伊坂幸太郎の小説に芸術家が多いように、
どこかしらリンクはしているんだけど、
現代とはリンクしていない。
現代の文学や美学はもっと重なっていい。
もっと乱れていい。


ところで。
芸大からの帰り道、谷中銀座を通る。
ここはかつて城下町だったところ。
幸田露伴五重塔』の舞台だったり、
お寺が多い町。
今は古民家を改装したブックカフェや古本屋、
オシャレな雑貨屋が並ぶ。
おみやげ屋が軒を連ねるは小京都。
階段を降りながら見る夕焼け。

良い雰囲気だなー、
ここで画廊喫茶かbarをやりたいなー。
物価もそんなに高くはないらしい。

そこには、古本や雑誌、アートを置いて。
この業界に入ってわかったけれど、
ほんの少し身体にアルコールを入れて、
絵を鑑ると、全然違ってみえてくる。
ワイン片手の絵画鑑賞は本当に至福。

自分で創ったフリーペーパーもおいたり。
小説家と画家が集まる場所になれば、いいな。

上野の美術館からでも歩いて行けるし、
根津・千駄木は活気がある。
アートが生まれる場所があるって素敵!

そんなアートな半日でした。