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たまに映画、展覧会、音楽など。

プラーツ『ムネモシュネ』、松岡正剛『多読術』

実は、ひそかに父がブログを書いている。
気まぐれに覘いているのだけれど、
同じ本を手にとっていることに気づき、失笑してしまった今宵(笑)
(『思考の整理学』について書いていた)
まだ読み終えていないので、先を越されたようで心外だが、
年末年始に実家に帰ったときに、
父の本棚からいろんな本をくすねてきたので、あまり大きな顔もできない。
というわけで、哲学にもハマりつつあるわけです。
(そしてそのブログで次女だる私のことを「いったきりすずめ」と書いていた。
そしてまったくといっていいほど登場しない)


…そんなことを書きたいわけではなくて。
タイトルの通り、記憶の女神について書きたかったのを今思い出した。


『ムネモシュネ ―文学と視覚芸術の間の平行現象』
 byマリオ・プラーツ

ムネモシュネ……記憶の女神……なんて美しく響く言葉。
そもそも「記憶」は、実際の生活では、何か補助的な働きとするもの。
しかし芸術の中における「記憶」は、それ自体(美的記憶)が芸術。
芸術は「記憶の女神(ムネモシュネ)」を我らが母に据えた。
据えたというより、この古代神話の女神がいたから、芸術が存在し得たというべきかな?

美的記憶は「空想」でもなくもちろん「想像」でもなく、
「記憶」という観念に属している、ということ。
ある芸術作品を感受するとき、それは自分の「記憶」の中で息吹を得る。

タイトルの意味はそんなまとめでよろしくて?

ルネサンスの“調和”におけるくだり
(音楽でいう「和声」、 建築でいう聖堂の「クーポラ(円蓋)」、
 絵画でいうレオナルドの「モナ・リザ」の口を描く「曲線」、
 詩でいう「8行連句」など、
 その時代の芸術作品にはその時代のアクスィス《=軸》がある)

や、
マニエリスムの“蛇状”におけるくだり
(絵画でいうアルチンボルドの「歪曲」、
 散文でいうフィリップ・シドニーの「しかし」の連用、
 文学でいうシェイクスピアの「凝り上げ」《=細部への拘泥》など、
 “蛇状”が中枢にある)

は、わかる。
でもね、プラーツさん。

当時の見方と、現代の見方って違うしょう。
いくら当時の初版本を読んだとしても、
現代を生きるわたしたちの目というフィルターがかかるでしょう。
そのフィルターごしにしか芸術をみることができないのかしら。
逆に、あらゆる時代のフィルターを見ることで、
その時代の特徴がわかるんだろうけれど、
そんな微視的な見方ではなくて、
鳥瞰的な見方ってできないんだろうか。ぱぱっと、ざくっと。

ダメだ、書き出すと、霧がますます濃くなるだけ。
あ、『夜と霧』の著者フランクルが書いていたように、
どんな極限状態においても(アウシュビッツに収容されても)、
人間は感情を失ったとしても、
宗教や芸術作品に救われるというのは本当なのかしら。
ということは人間が存在する限り、宗教や芸術はなくならないのかな。
ああ、ダメだ。思い出してきたら怖くなってきた。


次!
『多読術』by松岡正剛

こういう本ってあまり好きじゃないし、
元々小説ばかり読んでいた私にとっては、
彼の本だからという理由が大きかったけど、
ちょっとした読書改革がおこった一冊だった。

辞書とペンを片手にこの本を読んだ数時間は、
頭フル回転、蜜な空間というか、
同じ日本人なのになぜこんなにも辞書をひかなくてはならないのか、
自分のボキャブラリーのなさに辟易しながら、
でもそれも全て吸い尽くせるようなモチベーションの高さで読みきり。

内容書き始めるとまたしても霧が深くなるので、省略。
ただこの本の魅力はね、
「読前術(目次を読む、装丁読む)」
「読中術(マーキング術)」
「読後術(図式化)」というノウハウとか
“表現力=編集力”とか、
“読書=あらゆるものが混ざり合うこと”とか、
そういうノウハウを知るにもこの本は足りうると思うけれど、
あらゆる本を総括的に読む(多読)という概念が良い。
つまりひとつの本を読んで「はいおしまい」ではなくて、
この内容が、あの本のココにリンクしている、と“つなげる”こと。

「ただ、どんな本を連鎖させて読むということは、
自分の感覚を大事にしたほうがいい。そこに個性も出てきます」
(連鎖させる軸となる「キー本」も大事らしい)

そう、読書はコラボレーションでもあり、編集であるということ。
『情報の歴史』という、ジャンルを超えた歴史の本
(ぶっとばして書くと、世界史、科学史、建築史、物理史、文学史など全てのジャンルを統一して生まれた歴史書)が生まれたように、
再読、感読、味読、広読、狭読、食読、惜読……極めたい。


1月最後の日。残り数分となった。
元旦早々に本に攫われ、そしてそのまま駆け抜けた一ヶ月だった。
まだまだ読まなければならない本がたまっているけれど、
とりあえず2週間は、「考える」ことに集中する予定。
思考の編集、いよいよ大詰めというところ。

ああ、でも仕事もしなくては。
「読書三昧の日々にはしないで、断乎として仕事は続ける。
それも仲間とともに進める。一人ではなくてね。
そして、仕事でいかに時間がとられようとも、それでも読書をはずさないと決めた。」
元編集者の言葉には説得力がある。

ちなみにそんな正剛は、時間がなくても本を読むための解決策として、
「寝ない」ということを挙げていた(なんてこと!)
ここ30年間、360日くらいは午前3時以前には寝てないとか。

しかししかし、私的にハマっている松浦弥太郎
(「暮らしの手帖」の編集長&古書店経営者)は
23時には寝て、始業時間の1時間前に会社に行く。
食事もしっかり採って(正剛は鮭とタラコのおにぎり@コンビニ)、
アロマの香りをくよらせ(正剛はタバコ中毒者)、
毎日をていねいにという(正剛は読書をロッククライミングだという)。

人それぞれ、だと私は思うのです。