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たまに映画、展覧会、音楽など。

「シュルレアリスム展」(国立新美術館)

 今日の話題は、シュルレアリスム。そう、精神の最大の自由。
シュルレアリスム、男性名詞、心の純粋なオートマティスムであり、
それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようと企てる。」
 
 言ってしまえば、驚異の再構築。かけ離れた現実感の接近。
 そう、だからこそ惹かれあう。だからこそ再構築の価値がある。それを人は芸術と呼ぶ。

 そんなシュルレアリスムの話題を三つに分断して再構築してみる今。


1. 開放
 絵を観るという行為は、<視覚>を刺激する行為のはずなのに、
 時として、五感に訴える、攻撃的な行為と化す。

 ミレイの「オフィーリア」の絵を観たとき、
 その場から動けなくなったのを今でもよく覚えている。
 他の絵をすべて鑑賞したあとでもう一度戻って、ただただ眺めたものだ。
 不思議なことに、そのときの記憶を手繰り寄せると、
 オフィーリアが身体を横たえている小川の水のせせらぎ、
 あたりに咲き乱れていた草花の(特に草独特の青々とした)匂い、
 時がとまったようなオフィーリアの表情、
 対照的に水を含んだ服の重みとシンとした水の冷たさ(しかもだんだん重さを増していく!)
をありありと思い出すことができる。
 
 絵を観るという行為は、<視覚>を刺激するだけではない。
 そのとき、ほかの感覚全てを使ってその絵を観ている。
  
 絵を観て、香りを感じる。音楽を感じる。肌を感じる。
 言ってしまえば、記憶によって感じているに過ぎない。

 だけど、ジョアン・ミロシエスタ」。この絵は違う。
 そんな感覚さえもなくす、でも見入らせてしまう引力、
 だけど、五感で感じとることのできない(驚異の脅威)があった。
 線と線との絶妙な距離感、この関係性(間合い)に引き込まれていく。
 
 「よくわからない、けれど、どこか心の琴線にふれている」そんな絵を描く画家。
 言葉にできない感情……、
 人が普段感じていることを忘れているような感覚を思い出されてくれる画家ジョアン・ミロ
 感覚の開放。


2. 破壊
 今回の展覧会にはなかったけれど、ルネ・マドリッドのパイプの絵は有名だろう。
 大きなパイプの絵の下には「これはパイプではない」というメッセージ。
 
 私たちは気づいてしまう。
 「名ざす」ことで安心を得ていることに、次元の裂け目に落ちないようにしていたことに。
 
 あなたは誰?

 意味の剥奪がおこったとき、そこには透明な世界がある。
 虚無、見えない裂け目の奥。
 置き換えをしていたにすぎないという事実、その亀裂を作ったマドリッド

 私たちは、「名ざす」ことによって記憶を作っていたことに気付く。
 それはちっとも哲学的ではない。

 技法の上でも破壊といえるのがシュルレアリスム
 ジャクソン・ポロックは、筆を紙につけずに描くドリッピングといった
 アクション・ペインティングの手法用いた。
 「何だ、これは?」と言ったのは岡本太郎だけれど、ポロックだって何だ、これは?だ。 

 ポロックのことを別名「ジャック・ザ・ドリッパー」と呼ぶというのをつい最近知った。
 なるほど、切り裂き、壊し、完成させる芸術家ってわけか。

 破壊こそ、シュルレアリスム


3. 矛盾
 だけど、注目すべきところは、この破壊からの飛躍だと思う。
 シュルレアリスムは「思考の実際上の働きを表現しようと企てること」だとさっき書いた。
 思考の書きとりをすること、つまり、「名ざす」ことから離れると、
 そこにはパイプなのに、パンプキンかもしれない、パインかもしれないという矛盾が生まれる。

 マドリッドの絵が証明したように、
 思考は結局のところ、盾と矛の世界にしか過ぎないのだ。
 思うがまま、つれづれなるままに表現すると矛盾がうまれる。
 当たり前だ、人間の思考こそ矛盾の塊、ほかに一体どんな塊が詰まっているというのだろう。

 サルバトール・ダリというシュルレアリスト
 彼は「形のないぐにゃぐにゃとしたもの」を嫌悪していたという。
 たとえば、こんにゃくとか夢とか。
 そして「形のはっきりしたもの」に対する探求心が人一倍あったという。
 カタツムリとか、貝殻とか。
 だけど、彼はその「形のないもの・形のあるもの」を同じくらい執着して描いている。
 おそらく、愛と嫌悪をもって。時計、砂、空間そのもの。それは形さえも越える。

 出会うはずのないものが出会うとそこには、思わぬものが発生してしまう。
 そんな矛盾が、まさにダリの絵に表れているような気がしてならない。


*****

 結局のところ、シュルレアリスムはこの三つに集約されるような気がする。
 自動とか、精神とか、驚異とか、無意識とかいろいろあるけれど、
 表面上に出てくるものはこの三つ。
 五感に迫る感覚・今までの記憶の破壊・矛盾の肯定。

 自分の中にある矛盾を肯定することから、一歩踏み出せるような気がする。
 矛盾を肯定することで、破壊となり、感覚がうまれるのかもしれない。
 それとも、感覚が生まれることでかつての記憶が破壊され、矛盾を肯定できるのかもしれない。
 どちらだろう? 

 書きたいことは沢山あるのに、とりあえずひと段落!