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「青木繁展」(ブリヂストン美術館)美文方程式vol.3

美文方程式vol.3 「Paradise Under The See」
   〜 美術 <「大つごもり」> 文学


紺碧という色に恋して、もう何年になるだろう。

それは深い海底の色、人が知ることのできない地球の素顔。
海……それは命漂う世界、身体のようにふわふわと命泳ぐ。
心のように、しいんと沈んでいる世界。
神のいる水の世、ブルーの夜。


青木繁 「わだつみのいろこの宮」 1907年(明治40年)

画面上部に、山幸彦。
兄・海幸彦に借りた釣針をなくしてしまった幸彦は、
途方に暮れながら海底の綿津宮を訪れ、
豊玉姫(左)と出会い、結ばれる。
古事記にあるそんなエピソードを題材に、
2人が恋に落ちた瞬間を描いた作品。

前回紹介した「海の幸」は高い評価を受けたが、
今回の作品は自信作であったにも関わらず、結果は三等だったというこの絵。

そして、おそらく青木繁が影響を受けただろう作品がこちら。
海を越えてイギリスへジャンプ。


エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ 天保4年〜 明治31年)
「黄金の階段」1872年(明治5年)

乙女たちがタンバリン、トランペット、ヴィオラ、シンバルを手に、
天国の階段から降りてくる場面である。
この縦の構図はまさに青木繁

こんな作品もある。

「深海」1886年(明治19年)

シレーナが人間を誘い込み、海の奥底へさらっていく場面。
海底という人間の知るよしもない世界を、
バーンもこのように縦長の構図で描いたのである。


しかし、青木とバーンの構図が似ているというだけでは、ただの類似に終わる。
もっとこの作品を紐解いてみよう。

もう一度「わだつみ」の絵を観てみよう。
山幸彦を中心にして、左に豊玉姫、左にその侍女。
赤い服に、白い服。
山幸彦を中心に真っ二つにしてみると、きれいな二項対立が成立することは一目了然。

二項対立という構図は人間社会のいたるところに存在しているけれど、
この時代、二項対立といえば浮かんでくるのがこれ。

樋口一葉(明治5年〜明治29年)
『大つごもり』(明治27年)

物語の大筋は、以下の通り。
大晦日、山村家に奉公に出ているお峰がようやくお暇をもらい、病の伯父の元を訪ねる。
そこで、お峰は伯父夫婦から2円をどこからか手に入れてくるように頼まれる。
(借金の利息払いと、出世前の息子を祝うため)。
小さい頃に両親を亡くし、伯父一家に世話になったお峰は、調達を心に誓う。

場面はかわり、お峰の奉公先の山村家は大晦日の準備で大忙し。
主人に相手にされなかったお峰は、つい掛硯から2円を盗んでしまう。
罪が発覚することを覚悟したお峰だったが、
山村家の継子・石之助が50円の大金を盗み、お峰の罪が発覚することはなかった。

金銭的対比、人物的対比、構成、さまざまな対比がこの小説から読みとることができる。
これぞ「繋げる愉快」たるや所以。
金銭的対比は、伯父一家と山村家、
人物的対比は、「正直律儀」のお峰と「放蕩息子」の石之助。
構成は2幕、これぞまさに対比かな。

山幸彦を中心にしたこの図、2人の人物がまさに対比関係に描かれているところ、
まさに対をなしている。

作者・樋口一葉という人物を考えたとき、もうひとつエピソードが浮かぶだろう。
半井桃水に師事し、処女小説「闇桜」を桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した樋口は、
次第に、半井に恋心を抱くようになる。
双方独身であったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されず、
樋口は桃水と縁を切る。

師弟関係という上下の関係に注目したとき、
わたしはどうしてもこの「わだつみ」の絵と重なってしまう。
自分の師(頭上の存在)に恋心を抱き、
思わず頬を紅潮させ、赤い服は自分の身体を締め付け、
まるで官能に耐えているかのような豊玉姫
その一方で冷静に師を見つめる侍女は、もうひとりの樋口のよう。
2人にしか知ることのできない紺碧の奥底での、心のやりとり。深い結びつき。
古事記では、この2人は無事に結婚するけれど、
何だか切ない表情の山幸彦を観ていると、
樋口と半井のようなやりきれない思いを観ているようで、
胸が苦しくなってくる。
海の奥底にたった2人、2人きりで存在していられることの幸福、
2人でここにたどり着いたという幸福。2人だけの世界。
そんな<ブルー>の夜を、描いたように思えてならない。
そこはparadise? それとも――……?


この海底のエピソードはもう少し続きます。
2人にしか知ることのできない海の底から、今度はどこへさまよい出ましょうか――。