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「青木繁展」(ブリヂストン美術館)美文方程式Vol.4

美文方程式Vol.4 「光あれ」
      美術   <『それから』>    文学

海底、それは誰も知らない2人だけの世界。
心地よい世界、命生まれる場所。
それを描いたのが前回紹介したこの作品。

「わだつみのいろこの宮」 1907年(明治40年)

白馬会で3等賞という不当な結果に終わったこの作品だが、
全く評価されなかったというわけではない。
例えば、夏目漱石(慶応3年〜大正5年)がこんな風に書き残している。
漱石の前期三部作の第二作目『それから』の中にある文章。


『それから』(明治42年)
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代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好い心持はしない。
出来得るならば、自分の頭丈でも可いから、
緑のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。
いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画いた。
代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来てゐると思つた。
つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
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大学時代に裕福な生活を送り、卒業後ものらりくらりしていた代助。
就職した親友とその妻(以前恋心を抱いていた三千代)が金銭的に困っているのを知り、
助けてやるが、次第に夫婦仲がうまくいっていないことを知った代助は、
三千代にプロポーズをするというあらすじ。
そんな代助が一言「自分もああ云ふ沈んだ落ち着いた情調に居たかった」という
「好い気持」である世界が、あの「わだつみ…」の世界なのである。

当時の青木は、一体何を目指していたのだろうか。
静かな世界なのか、落ち着いた情調なのか。
ここで興味深い文章をひとつ。
当時、小学生から中学生へ進んでいく中で、青木がこんなことに頭を悩ませている。
「我は如何にして我たり得べきか」
自分とは何か。何をして生きていったらよいのか。
厳格な家庭に生まれ育った青木は想い悩む。そして出した答えは、
「われは丹青(色彩・絵画のこと)によって男子たらん。
(略)芸術の世界でアレキサンダーになる」
というものであった。
当時、まだ学生時代である。そんな時代に彼は絵画の道を志し、
父親に大反対されながらも上京して絵画活動、28歳でこの世を去った。


彼だけではない。

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「19歳の俺が、今世に、どれだけの事をして居るだろう。
 人格が何だ。無だ。芸術がどれだけの物か。貧弱なものだ。
 もっと、力有るものを創らねば、俺は死なない。死に得られない」
 関根正二 1899年(明治32年)〜1919年(大正8年)


「欲望に囚われず、感傷に堕せず、神経に乱されず、人生を貫く宿命の中に、
神の真意を洞察することができなくてはならぬ」
中村彜 1887年(明治20年)〜1924年(大正13年)
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「若い」ということは確かに未熟ではあるけれど、
未熟で若いからこそ見えるものはあって、
その若き時代特有の感性というものは、ある。
それをなくして芸術家は前へは進めないし、
おそらく生涯における貴重な原点となるはずである。

夏目漱石に話を戻そう。
漱石が大学を卒業する若者に送ったメッセージとしてあまりに有名なこの講演録。

「私の個人主義」1912年(大正3年)を改めて読んでみたい。

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……何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、
生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。
ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! 
こういう感投詞を心の底から叫さけび出される時、
あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。
容易に打ち壊こわされない自信が、その叫び声とともに
むくむく首を擡もたげて来るのではありませんか。
すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、
もし途中で霧か靄もやのために懊悩していられる方があるならば、
どんな犠牲を払はらっても、
ああここだという掘当ほりあてるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。
必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。
またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。
あなたがた自身の幸福のために、
それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。
もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、
もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰ふみつぶすまで進まなければ駄目ですよ。
――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、
何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。
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私事だけれど、中学時代に教科書で呼んで以来、この
「ようやく掘り当てた!」という言葉が頭から離れなかった。

自分で掘り当てられる気がしなかった。
その一方で、
「本」「文章」というキーワードがきっと鉱脈を当てるカギとなるだろうと、
心のどこかでずっと思っていたようが気がする。
今、「掘り当てた!」と間投詞付きで叫べるかと問われれば
いささか自信はないけれど、
「これで進んでみる!」という覚悟の意味の間投詞なら、可能だと心から思う。


20代という若さとは一体何であろうか。
「これをしなければ!」と、
思わず世界を担うほどの覚悟をもつのは一体何故だろうか。
そして、明治から現代へ。
今を生きる若者たちはそれを背負うことを放棄しているのか?
わめいているのはおじさんだけなのか?
そんなことを書きたくって、それを何より自分自身に問いたくって、
今回の美文方程式を思いついた。

明治時代を駆け抜けた若者たちは、
間違いなく、日本の将来を背負おうという気負いがあった。 

明治27年、樋口一葉たけくらべ』、泉鏡花『外科室』でデビュー、
翌年、尾崎紅葉『多情多恨』、広津柳浪『今戸心中』、泉鏡花照葉狂言』、
明治30年、尾崎紅葉金色夜叉』、幸田露伴『新羽衣物語』、国木田独歩『武蔵野』
露伴30歳、紅葉29歳、独歩26歳、一葉25歳、鏡花24歳、
この20代目白押し!!!! 
私は今、鏡花と同い年だ。

彼らはきっと日本語を武器に日本の将来をどうにか変えようとしていたのだろう。
では、今、日本でそれを担おうとしている若者は一体どこにいるんだろうか。

3.11の震災を機に思うのは、現地に入るボランティアたちのこと。
彼らはまだ若い。
以前であれば、自衛隊や報道関係者が現地にかけよるのだが、
今回はボランティアが動いたという点が阪神淡路大震災との大きな違いだろう。
若者も若者なりに何かを探し、何かをなそうとしている。
おそらく、明治とは違った価値観と、違った方法で。
子供時代の競争主義にすっかり疲れてしまった若者たちは、
何かを堂々と語るのではなく、
それぞれ「らしく」輝くことを目標に人生を歩んでいるように見えなくもない。
トップになるのではなく、誰かの唯一な存在、確かな役にたちたいという気持ち。
そんな切なる想いを今の若者からは感じるような気がする。

最後にもう少しだけ、青木繁の絵画を紹介しておきたい。

「光あれ」1906年(明治39年)



そして、彼の絶筆。
絶筆「朝日」 1910年(明治43年)

入退院を繰り返し、
「此世の恨恨と憤怒と呪詛とを捨て、静かに永遠の平安なる眠りに就く」
という言葉とともに逝去。

芸術のアレキサンダーになる!と意気込んだ若き青木繁の姿をみていると、
若い芸術家像というのはこうも悩み、背負っているんだということを実感させられる。


海底で2人だけの世界、というのも素敵だと思う。
そんな世界に私も憧れる。

しかし、こうやって海底から出て広い水面を見たとき思わずしてしまう深い呼吸、

空を思わず仰いでしまう、この開放感。

2人だけではなくて、もっと広い世界へ飛び立ちたくなるのが知をもつ人間だろう。


1901年(明治35年)、美術新聞にこんな文章が掲載されていたという。
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美術は国家の精粋也。国家の理想也。社会の趣味也。
文明の光華也。時代の精神也。
貔貅(兵士)百万、艨艟(戦艦)山の如く、其武は以て世界に横行するに足るも、
農工商業大いに進歩し、積累薀蓄、其富は以て列国に冠絶するに足るも、
其美術の以て之に伴ふもの無くんば、
其国民は未だ世界に向かって(自らを)誇りと為すに足らざる也。
人は固より麺麭(パン)のみに由りて生活するものにあらず。
麺麭以上至高至大、至心至善なる理想無くんば、
是れ其社会は没趣味なりと謂はざる可からず。
而して美術は理想の代表也。
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美術…それは絵画と捉えても文学と捉えても音楽と捉えても同じだと思う。
命を救う仕事、生活を支える仕事がある一方で、
国家の精粋である人の心。
人の心を守っていくのが芸術の仕事なんだと思い、
私はこの道を進んでいこうと決めたんだと思う。

深い深い、海の底から水切って、海面に飛び出して、
広い海へ航海へ出る。
その時に、明治時代の彼らの言葉を胸に、彼らの絵を心にとどめておきたい。
果てしない紺碧の海には追い風ばかりではない、強い向かい風も吹くだろう。
だけど明治の強き心を糧に、この海の先に繰り広げられる様々な出会いに心ときめかせて
進んでいくことができたら――。
「光あれ」というこの作品のタイトルは、
旧約聖書天地創造の場面ということでそう名付けられたが、
こうして見ると、今を生きる私たちへ青木繁が放ってくれたメッセージ、かもしれない。


青木繁展、素晴らしい展覧会でした。