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ヨースタイン・ゴルデル 『ソフィーの世界』

ソフィーの世界』 ヨースタイン・ゴルデル
                NHK出版

「あなたは誰?」
もうすぐ15歳になる女の子・ソフィー・アムンセンの元にそんな手紙が届けられる。
哲学の先生・アルベルトから届く膨大な手紙。
哲学講座の始まりだ。


「あれからもう随分経つのね、信じられないくらいだわ。ちょうど、私とヒルデが15歳になる直前だったのよね」
ソフィーは桟橋に腰かけて懐かしそうに話す。その橋の向こうには、二階建ての家に灯りが灯っている。
静かだが、楽しげな夕食の団欒が聞こえてきそうだ。ヒルデと父親は今夜も哲学の話をしているのだろうか。

「そうだね。あれから随分世の中も変わってしまったね。だけど、世の中の仕組みは変わらないよ、ソフィー。地球は黒いシルクハットから出てきた白兎ですと、僕はまた君に説明したほうがいいのかい?」
立ち上がって星を見ていたアルベルトがそう言う。ヒルデが15歳になった日の夜、そう、あのとんでもない何かが起こった日の夜のように、沢山の星屑が夜空を彩っている。
「記憶力はいいほうだって、言ったでしょ?アルベルト。
でも、そうね、今日は『ソフィーの世界』についてわかりやすく説明しようっていう魂胆があるみたいだから、そのあたりからはじめたほうがいいのかもね」

「君が初めて僕からの手紙を受け取った日、君はヒルデが誰か、分からなったね。哲学講座は古代、中世、バロックルネサンス啓蒙主義ロマン主義と続いた」
「思い出した。古代ではビデオテープで“本物”のプラトンを紹介してくれたのよね」
「そうそう。彼を紹介するために、あそこでビデオを回すのはとても難しいことだった」
「中世のときは、マリア教会だったわ。アルベルトは僧侶だったし、バロックになるとくるくる巻き毛にタイツで登場していたわよね」
「イメージとしても君に理解してもらいたかったからね。
それからアリスやニルスやマッチ売りの少女、クリスマス・キャロルのおじさんもゲストとしてお招きしたね」
ソフィーはお気に入りの講座を思い出した。
「そう。だけどいちばん好きな場所は、やっぱりアルベルトの部屋だったわ。あの屋根裏部屋のアパートには、何世紀分もの歴史が詰まっていた……。ソファは30年代、キャビネットデスクは世紀末。ほかにも古い時計や水差しや、乳鉢やレトルト、メスや人体模型や、ペンナイフやブックエンドや、八分儀や六分儀や、コンパスや気圧計が、それこそごちゃごちゃと積み重なっていたわ」
「そのおかげで、君がきちんと世の中の仕組みを理解してくれていたら、いいんだけどね」
「アルベルトがデカルトの『方法序説』初版本を出して話をしてくれたときはゾクゾクっとしたわよ」
「しかしこの物語の凄いところは、行間に“ものすごい何か”がおこっているところなんだ。そこが物語のキーだ。例えば、突然ソフィーの手元に、“愛するヒルデ。誕生日おめでとう”というメッセージが届く。あの頃、君はヒルデが誰か見当もつかなかった」
ソフィーは思わず家の明かりに目をやる。ヒルデはもうすっかりおとなになってしまった。彼女は、兎の毛の下にうずくまっていないだろうか。

「そう、れっきとしたミステリー小説ね。哲学講座も半ばに差し迫ったとき、そのミステリーの中身の一部分がわかったわね。ある一人の哲学者の問いのおかげで」
「これはきっと飛ばし読みをしてもよくわからないと思うので、ぜひ読んでもらわねば。
とにかく、そっくりきれいにひっくりかえるのだ『ソフィーの世界』が。くるりと。」
アルベルトは車に戻って、『ソフィーの世界』を持ってきた。
「これを君に買ってあげた日の翌日が、君の誕生日だったね、ソフィー?」
「ええ。だけど、その頃は私もアルベルトも少佐の手にかかってばっかりで。
アルベルトの飼っていたヘルメスって犬が突然“ヒルデ誕生日おめでとう”って言いだすし、アルベルトはしょっちゅう、“一段落!”と言うはめになった」
本の頁をぺらぺらとめくっていたアルベルトがふと思い出しかのように言う。
「だけど、その時の君の台詞、覚えているかい? 少佐もいい気にならないほうがいいんだって」
「覚えているわよ。少佐を書いている筆者も、いい気にならないほうがいいとも言ったわ」
「ここで僕はもう少し口を開かないといけないようだ。
ほら、この本にこんなメモが挟まっている。
メモが挟まっているということは、誰かが読まないといけないってことだ」
「もちろん、そうよ。そうじゃないとメモは必要ないもの」
アルベルトはメモを電灯の光にあてて読みだした。

はじめて読んだのが中学3年の受験期。
これを読み終えたならきっと受験は失敗するだろうと思いつつ、とまらなくて期末テストそっちのけて読んだ。
(だけど合格したのは社会の試験にばっちり内容が出たからだろう。教養的にもとても役に立つのだ。たとえ話を使って哲学を語れば、すんなり頭に入る。そう、テキストではなく、まさに物語として、イメージとして頭に入るのだ。)
私たちが認識している万物は本物ではなく、暗い洞窟から本物がすっと通るその影を見ているにすぎないのだと(プラトンイデア説)、放物線とは何か?なぜリンゴは落ちるのか?なぜ落ち続けないのか?(これを受験期にコンパスを使いながら考えたら数学なんてできなくなる!)
哲学だけではなく歴史にも通じる。なぜ偶像崇拝がある宗教とない宗教があるのか?
光合成ひとつ、鉄砲到来ひとつ、古文ひとつが、哲学と結びついていく衝撃!


ソフィーもアルベルトもふっと微笑んだ。桟橋の下を流れる水も微笑んだかのように、静かにさざ波をたてた。
「そう、僕たちだけじゃないんだ。
こんな風に『ソフィーの世界』に影響をうけた人たちはノルウェイだけじゃない、いろんなところにいるんだよ。このメモを書いた人だって、きっとノルウェイ人じゃない、どこか遠いところの女の子なんだろね」
「そう思うとなんだか不思議だわ」
「不思議に思うところから、哲学ははじまるんじゃなかった?」

「著者はノルウェイ人だったのよね?」
「そうだね。元々高校で、哲学を教えていた先生だった。
授業は僕よりも下手だったというんだけど、どうだろうね」
「ぜひ一度、お会いしてみたいわね。それに先生だっていうのも何となくうなずけるわ」
「ほかにもいろいろと本を出しているからぜひこの本を読んだのなら、ほかの本も読んでみるといい。どれも世の中の不思議さについて書いている。『カード・ミステリー』なんかもそうだね」
ソフィーは声をあげた。
「見て、アルベルト! ボートがひとりでに流れ出している!」
縄がほどけたのだろうか、誰かがいたのだろうか、桟橋の向こうからボートがゆっくりと流れだしていた。
「ほう、誰の仕業だろう? 新しい登場人物のお出ましかな?」
「一緒に行こう、アルベルト」
「ほらほら、その台詞、どこかで聞いたことのある台詞だろう?」


三千年を解くすべをもたない者は
闇のなか、未熟なままに
その日その日を生きる    ――ゲーテ