「シャルダン展」(三菱一号館記念美術館)
シャルダンが生きた18世紀フランスというのは一言で言えば“ロココ”
――雅宴(フェート・ギャラント)――の時代。
浮かんでくるのはフラゴナール、ヴァトー、ラ・トゥール、プーシェ……
華やかな貴族風俗画、恋愛画が宮殿の壁を飾った画家たち。
フラゴナールの「逢びき」「ぶらんこ」
プーシェの「水浴のディアナ」などがこの時代の代表作だ。
(フラゴナール「逢びき」)
さて、今回のシャルダン。
驚いた。
彼らのような絵ではなかった。
フラゴナールのような霞がかった淡い色遣いではなく、
もっとしっかりした色で、むしろレアリスムやバルビゾン派に近かった。
1.
絵というものは不思議なもので、
「一枚」にはその“一瞬”しか描けないのにもかかわらず、
そこから溢れるようにいろいろなものが物語られている。
ミレーの「落穂拾い」然り、
コローの描く「フォンテーヌブロー」然り、
モネの描く「睡蓮」然り。
(モネの絵は時の移ろいを一枚に描ききっている。
私が絵を好きになったのは、小説を読むように絵を読めると知ったから)。
勿論そうではない絵もある。
セザンヌのりんご、ピカソの女、ゴッホのひまわり……
彼らの絵は物語るというより圧倒的な画力であたりを払いのけ、
オーラを放つ。
「感情で絵を描くんだ」
「絵は理屈じゃない」
こんな言葉はそういった彼らの間で言われている理だ。
対象を自分の感性を通して表現する彼らにとって、
色は感情表現のひとつに過ぎない。
シャルダンはこのどちらにも当てはまらない。
ただひたすらモチーフを描き続ける。
人であれ、果物であれ、食器であれ。
ヴェニタスもなく、貴族の肖像でもなく、歴史画でもない。
ミルクが注がれる瞬間、祈りの儀式が始まる瞬間……、
そんな絵のふくらみがない。
観る者が唖然とするほど、“動かない絵”なのだ。
新鮮な感覚だった。
ただただ、その絵と無心になって向き合えばいいのだ。
すると、絵本来の姿が見えてくる。
たとえば、異なるモチーフだと同じ色でも違う色味が出てくるということ。
支持体(板、キャンバスなど)の違いによる色彩の変化。
光の反射による色の違い……。
絵にあるメッセージや歴史背景ではなく、絵そのもの情報を読み解く。
絵そのものの魅力と改めて向き合うことができる。
近代になって再評価されたシャルダンの良さ、とはそんな純粋性にあるのだろう。
2.
そうして展覧会をみてうちに、絵の変化に気づいた。
対象を細かく正確に描かなくなるのだ。
おそらく彼自身、「綿密に描くこと」から
「存在感(空気感)を描くこと」へと変化していったのだろう。
絵具を塗り重ねることで質感を出すのではなく、
柔らかい色を薄く塗り、
ぼんやりとした背景からモチーフを浮かび上がらせる……。
そうして描かれた静寂が、
ありきたりな生活用品がこんなにも情緒ある絵にしている。
では、代わりに描かれた「存在感(空気感)」とは何か。
たとえば、「木いちごの籠」。
桃の丸み、プラムの赤さ、
籠の質感、テーブルの木目のあたたかさ、
ことごとくが絵として納まっている。
積まれた木いちごの重みといい、ガラスの水といい、
シェルダンらしい沈黙。
そして何より、光を受けているかのように浮かび上がる、
見事な木いちごの存在感。
しかし、近づいてみると、いちごではない。
赤いまるに、妙な黒ずみ、
偶然つけてしまったかのような白い絵具がのっかっているだけ。
それが絵から程よく離れて観ると「いちご」になっているのだ。
この絵を観たときに、
絵具がきちんとキャンバスにくっついているみたいだ、と思った。
良くない絵は、キャンバスの上に絵具がのっかっているだけだ。
しかしこの絵は違う。絵具を使いこなし、絵になっている。
改めて思う。絵は不思議だ。だけど、きっと、絵はかくありき。
3.
話は変わって、とある画家のアトリエの話を少し。
彼もシャルダン同様、
ただひたすらに静物画を描き続ける画家で、
ガラス器やりんご、空のワインボトルなど――
を、時が止まったような沈黙とともに――描く。
先日、とある展覧会でりんごの絵を出品していた。
アラベスク模様の布の上にりんごが五個。
横からではなく、真上から描いているという少し変わった構図だった。
(りんごを真上から描く絵を今まで観たことがなかった)。
赤いりんごの艶っぽさ、五個のりんごの絶妙な配置、
布の質感が見事だった。
彼のアトリエに行ったのは夕方遅く。
太陽光が入らないように完全に目張りされ、妙に薄暗い。
華やかな絵とは対照的なその暗さに正直驚いた。
筆と絵具、キャンバスとモチーフが所狭くひしめいている。
画集が積まれ、描きかけの下絵がちらばり、
展覧会の案内状、手紙、美術館のチケットがテーブルの上に置かれている。
そして部屋の一番奥にモチーフを置いた一角があった。
一面、白い布が張られ、展覧会で陳列してあった絵そのままの世界があった。
まるで絵からそのまま抜け出してきたかのように。
あの絵はこんな空間で生まれてきたのか。
ここでどのくらいの間、描かれたのだろう。
どのくらい濃い時間を画家と過ごしたのだろう。
そんなことに頭をめぐらせていたとき、
「このりんご、あげるよ」
と、その画家がモチーフに使ったうちのりんごを二個、ひょいととって、
私に手渡してくれた。
その瞬間、絵の世界が崩れてしまった。
私の手にあるりんごは、もうあの絵にあるりんごではなく、
ただの赤くて大きい、りんごだった。
私は、何も言えなかった。