たまに映画、展覧会、音楽など。

演劇「ねこねこでんわ」(小劇場楽園・下北沢)

「解釈は自由である」
「物事は底辺からはじまる」

そんな言葉が飛び交う演劇を見た。
まさに言葉が“飛び交”っていて、劇中ずっと何かしら言葉が発せられていた。
面白いのは、登場人物の台詞ひとつひとつにそんなに意味はなく、
言葉の乱取り稽古に近いような、
シュールな演劇にふさわしい、台詞の掛け合いが続いた。
意味(意図)を考えようとすると、展開についていけなくなる、
なんともシュールな1時間半。

でも、はっとする言葉がいくつかあって(それが冒頭の台詞)
そんな台詞は劇中に何度も繰り返され、観客の頭の中に刷り込まれる。
家に帰ってふと出てきた言葉がこれだった。

つまりは、人と人とのコミュニケーションも
実はそんなに言葉が意味をなしていないのかもしれない。
言葉は記号であって、自分が発した瞬間、自分のものではなくなる。
相手の受け取り次第で、言葉にどんな形にも姿を変えることができるのだ。
刺す言葉になったり、救う言葉になったり、
全くトビラを開かない言葉になってしまったり。
言葉というのは思い通りの形のまま、相手に届かないのだと、今回改めて分かった。

メールやパソコンが普及し、人類は言葉を以前より頻繁に使うようになった。
特に書き言葉。つまりは文章を。
でもそれは、あくまで言葉の連なりでしかなく、本当の文章ではないと思う。
あくまで記号上の言葉、伝える手段でしかない言葉。
文学を創る人たちは、言葉を最大限に表現する手段として操ろうとしている。
そんなふうに言葉を使いたい。
ただ、言葉の瓦礫をやみくもに破片をみつけてつなげるのではなく、
言葉の原石を自分で見つけて時には磨いて、ここぞというときに出す。
そんなふうに言葉を使いたい。