多和田葉子『溶ける街 透ける路』
「あ、この作家は当たりだ」と本を開いた瞬間にわかってしまい、思わず閉じてしまった。まず言葉の選び方が他と違っていた。甘すぎず、硬すぎず、柔らかだけど薫りすぎることがなく、知的で豊かで美しい文章。名前は多和田葉子という名前だった。
多和田葉子は、日本ではあまり知られていないような気がする。20代の頃にドイツ・ハンブルクにわたり、ドイツ語と日本語の二ヶ国語詩集を出版し、作家となる。日本では芥川賞、泉鏡花賞などの賞ももちろん受賞しているのだが、現在ベルリンに住んでいる彼女の本は東京の本屋で平積みされるような作家ではない。しかし、長い海外生活だからこそ書くことのできる視点、言葉の力がある。
この本に入る前に、もう少しだけ彼女の魅力について書いておく。フランツ・カフカの『変身』を彼女は訳しているので、その冒頭について。通常の冒頭は、
「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた」(カフカ『変身』岩波文庫・山下肇訳)。
しかし多和田葉子の手にかかるとこうである。
「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた」(2015年5月号『すばる』)。
通常の日本語である「何時・誰が」ではなく、「誰が・何時のこと」というドイツ語と同じ順番で書き出していること、“夢”のニュアンスが全く違うこと、そして何より“毒虫”が“ウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)”という長い言葉に訳されていること。過去何作も訳は出されているにも関わらず、ここまで原語に迫った訳はないだろう。これぞ、ドイツに住んで言葉を身体で吸収している多和田葉子節だと思う。
さてこの本はエッセイなのだが、初めて彼女の本を読むのであれば、小説ではなくまずはエッセイから入るのがベストだと思う。なにせ小説は、カフカも顔負けのびっくりするような設定・構成なので、読む前に抗体をつけておいたほうがよい。
内容は彼女が世界各国を朗読会や講演会などで足を運んだ記録をしたためたもの。シアトル、ボルドー、パリ、デュイスブルク、トゥールーズなど、初めて聴く町の名が登場し、彼女はそこで仕事をするかたわら美術館に行ったり友人にあったり、本屋に行ったりする。読んでいてまず目につくのは、海外ならではの文学イベントの豊富さだ。
例えばリューネブルクでは、まず多和田葉子が日本語で詩を朗読する。現地の子どもたちはその知らない言語を聴きとり、聴いたままを声で再現する。するとその声に対して他の子どもが楽器で即興音楽をするというもの。本書で多和田葉子はこう書き綴っていた。
「自分の理解できない言語に耳を澄ますのはとても難しい作業だが(…)繊細で果敢で好奇心に満ちた耳が、かつての日本にもあったはずだと思う。それができなければ、異質な響きをすべて拒否する排他的な耳になってしまい、世界が広がらない。創造的な活動は、まず解釈不可能な世界に耳を傾けるところから始まるのではないか、と改めて思った」(166頁)。
ほかにもインスタレーションの記述がある。本棚にずらりと本が入っているが、その本は全て、背表紙を奥にして本棚に本がいれてある。これから読まれるべき無数の頁が無数の溝となって存在しているという。面白い。
アメリカ、ロシア、エストニアなど、様々な国をまわりながら各国の文化や文学の違い、気候の違いを綴るこのエッセイは、他のエッセイにはない国境間の新鮮さがあると思う。もちろん文章の巧みさも健在している。
(文学博物館に入ったとき)「騒がしい町中にありながら敷地に入ったとたんに気持ちが落ち着く。それは「癒される」というような受け身な静けさではなく、「日常の喧騒など忘れて分厚い本でも書け」という励ましを感じさせるしたたかな静けさである。」(12頁)
静けさを励ましという言葉に置き換えることのできるこの作家の文章が、私はとても好きだなと思う。