たまに映画、展覧会、音楽など。

エジプト記「シナイ山vol.3」

シナイ山の山頂──。頂上は、別世界が広がっていた。

f:id:puku0427:20171116060308j:plain

おそらくムスリムのたちだろうか、蝋燭を灯し、小さな声で歌を歌っている。岩で作られた小さな小屋のまわりにみんなが集まり、毛布をかけあい、その歌を聞きながら、日の出が登ってくるのを空を見つめながら静かに待つ。訪れた人々は全部で数十人か、あまり話さず、その景色を写真に収めるか、ただ空を見つめているだけだった。

https://www.facebook.com/puku0427/posts/1577157192365921?pnref=story

山頂からの景色はただひたすらに岩山だけが見えた。逆に言うと、町や人が住んでいる様子など、まったく見えるそぶりもない。ただひたすら、岩の山ばかり。緑さえも、ない。地球にいる、そんな気持ちにさせられた景色だった。東京にいる、日本にいる、アフリカにいる、そんな言い方とはまた違う、地球にいる、という感覚。地球という星が作った、いくつも連なる山々の一つにうずもれるようにして、今ここにいる。すべてが統一されていて、静かに、昨日と同じ太陽を待っている、そんな感じだった。

 歌がやみ、ご来光がゆっくりと辺りを照らし始める。エジプトらしくない、やさしげな日の光。山肌の色がさーっと色づく。茶色だと思っていた山も、遠くのほうは薄い茶色だったり、赤っぽい山もあったりした。日が昇り始めたらあっと言う間なところは、日本で見るそれと同じだった。

f:id:puku0427:20171116053258j:plain

 ふと、モーセもここを通ったのだと思う。ユダヤ教キリスト教イスラム教の預言者のひとりであるモーセ。宗教に明るくない私には理解できていない部分があるけれど、あらゆる宗教がこの地を大切にするという気持ちは確かにわかる。日本が富士山を大切にしているのと同じ、祖母が裏山の神社を大切にしているのと同じだ。聖地、という言葉があるけれど、その地には何もないところのことが多い。ガンジス河も、バチカンも。シナイ山も、荒涼とした山と大地がひたすら続くだけだ。

f:id:puku0427:20171116060959j:plain

 何もないからこそ、神に祈ったり、身を清めたりするのかもしれない。私は信仰する宗教がないので、神に祈ろうとは思えず、祖母がよく初日の出を拝みながら家族全員の名前をひとりひとり読み上げて一年間の健康と無事を祈っていたこと、私のまわりで亡くなった人のことをぼんやりと思った。

f:id:puku0427:20171116062122j:plain

 日が昇ったあともガイドはみんなに集合をかけるわけでもなく、ツアー一行はなんとなく集まり始め、誰々がいないなど口々に言って、全員揃うのを待ち、再び全員で同じ道を下りていく。朝7時を過ぎると、すっかりあたたかくなり、エジプトらしい日差しが辺り一面に振り注ぐ。夜中に登ったときにはいなかった。小さな子どもたちが至る所で待ち構えていて、通り過ぎるたびに小銭をねだってくる。

f:id:puku0427:20171116071347j:plain

 ふもとに下りたのは9時半過ぎ。膝が多少わらっているが、そこまで支障もなく、無事に全員が下山。英語、アラビア語が飛び交ったこのメンバーも、皆で励まし合いながら、冗談を言いながら山を登ったおかげで、すっかり仲良くなれた。彼らのおかげで良い旅ができたなと思う。おおげさな別れはなく、バスを降りるときに「さよなら」と言いみんなに手を振り、それぞれの旅の続きに戻った。