たまに映画、展覧会、音楽など。

紫式部作、角田光代訳『源氏物語 上』

 思えば、本の記憶とは、その内容というよりも、自分がどんな状況で──つまり、いつ、どこで、誰と一緒にいるときに、どういう心境で──読んだかによって、大きく変わってくるように思う。旅しながら本を読むと、その旅の記憶が、本の記憶となるように。

 例に違えず、大晦日の夜に近所の寺で法要を聞き、除夜の鐘をつきに行ったとき、そこは源氏や帝、女君たちのいる宮中だった。光君は、年末年始のたった1週間ほどのあいだに、多くの女性と恋に落ち、手紙を書き、幾多もの行事をこなし、悲しい別れがあり、明石に流され、また京に戻ってきた。その間、私も京にいたような心地だった。

 寺で聞いた法要は、葵の上を偲ぶかのように思えた。ぱちぱちと音のする焚火、甘酒、除夜の鐘、菩薩像……それら全てが、まるで光君のためにしつらえられたようだった。

 だとしたら、私は光君に仕える女房? 恋する相手、というわけではなく、でも近いところで光君を見守り、はらはらする、そんな距離からずっと光君を見ているようだった(それは事実、紫式部がそのような地位があったがために、ところどころに作者の意思は垣間見えるからだと思う。しかも、角田光代は、そういうところのみ、絶妙な言葉の遣い方をしていた)。

 ここでは、四季とそれに伴う季節の行事と、手紙のやりとりと恋が、幾度も、何年にもわたって繰り返される。直衣の色、月の形、和紙に薄墨でしたためた手紙、そこにたきしめた香りが、鮮明に浮かび上がってくる。平安時代には、香木を粉にして蜜などで練り固めた練香や、香木を砕いて袋に入れた匂い袋、香炉で焚いた空薫物など、現代とそう変わらない香りの楽しみ方があったことがわかる。

 光君も、季節に合わせた香りを着物に焚きしめる場面や、朝に光君が去ったあとの残り香について言及する場面も数多くあった。事実、『源氏物語』といえば、香りの文化だという人も多く、今回出版された訳本にも「匂い袋」が同封されていた。おかげで、本を開くたび、ページをめくるたびに、ふわりと香りが舞い続けた。

 きっと、本の記憶が自身の記憶と重なると言う意味と同じく、香りというのは、本の記憶──本だけではなく、自身の思い出ももちろん──想い起こさせるものなのだと思う。

 ところで、日本語の命は20年だといわれている。世界には、数百年経っても変化しない言語があるけれど、千年以上も遡る平安時代の言葉は、現代のそれとは大きく異なる。与謝野晶子谷崎潤一郎円地文子瀬戸内寂聴も『源氏物語』を訳したが、それはつまり、それだけ日本語が変化し、多様である証拠。

 つまり、言葉は変化しても、物語そのものは全く色褪せない。だからこそ、平成30年の年の瀬に、光君が歌を読むことができるのだと。