たまに映画、展覧会、音楽など。

高木正勝「Girls」

今日は音楽の話。

聴けなくなった音楽がある人は多いだろう。
かつてあんなに聴いていたあの曲が、
今はあまり心に響かなくなって聴かなくなったり、
あるいは聴くのに耐えられないくらい切ない思い出が入り込んでいて聴けなくなったり。

音楽は、あらゆる芸術の中でも、特別サディスティックなものだと思う。
絵画や文学はただ眺めていても、心がそこになければ入ってこないけれど、
音楽というのは、心なくとも、そこに入り込んでくる。まっすぐに、本心に向かって。
だから、音楽を聴いたときの気持ちというのは本物の気持ちだと信じられる。
私は絵画を観るとなぜか指先がジンとしてとけてなくなりそうな感覚になるのだけれど、
一方で受動的な音楽鑑賞はなぜか細胞が水のようなものに満たされていくのを感じる。

たとえば、
今、高木正勝の「Girls」という音楽を聴いている。
実はこの曲は、音楽と一緒に映像も創られていて、それを観ながら聴くのが一番よいのだけれど、
それでは文章が書けないので音だけで今は鑑賞。だけどとてもお勧め。
http://www.youtube.com/watch?v=DEQV_YmhZcE

やさしく流れてゆく諧調、右手の絶妙なリズム感、
少しラヴェルを思い出す、音の遊びがそこにはある。
音符――そのほとんどが八分音符だと思う――が、はねたり、まわったり、流れたり、笑ったり。
この曲を聴いた途端、大切な思い出を思い出すし、
思い出すと同時に、細胞が、曲――正しく書けば、液体化したこの曲――に満たされていくような感覚になる。
自分自身が音楽と共鳴していく、部屋全体が音楽に包み込まれていく、
少しずつ自分の感覚を失っていくようなまさに抵抗のできない状態に陥ってしまう、
サディスティックな時間。


村上春樹がこんな文章を書いている。
……そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。
あなたの心の中にもそれに類したものは少なからずあるはずだ。
僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料にして、世界を生きている。
もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、
太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。
だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、
ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。
(『意味がなければスイングはない村上春樹

そう、私は毎日恋をするように音楽を聴き、そうして自分自身を勇気づけている。
そんな風に生きているでしょう? 

パウル・ベッカーという音楽批評家は
「芸術体験において、人はあらかじめ自分の中にあるものを再認識しているだけなのだ」と言う。

行き着くところは、記憶の女神なのかもしれない。
私たちは音楽を聴いたり(サディスティック!)文学を読んだり、絵画を観たりするとき、
自分の中の内なる図書館にたたずんでいる女神が、
声をあげるか否かで感動するか否かが決まっているような気がする。


音楽は、とてもナラタージュ的だとも思う。