たまに映画、展覧会、音楽など。

「フランシス・アリス展」(東京都現代美術館)

フランシス・アリス展を観た。
ちょっとはっとした。

砂塵を巻き上げる竜巻の中へカメラ片手に突入していく映像。
20分以上はあった。
その部屋に入ると、大きなスクリーンの前に、枕と敷布団が何個も用意されている。
つまり観客に「どうぞ寝ってころがって観てください」というわけ。
事実、みんなどこにどっこらしょと頭をのせ、足をのばして、
まるで家の中にいるかのように観る。
でも真っ暗な広い空間の中で、布団が無作為に並べられているのってなんか、、、ちょっとね。。
で、その映像が何かというと、竜巻の中に突入していくんだけど、
確かに下からの目線だから、寝て観たほうが臨場感がますのね。
いや、しかし、座ってみるんじゃないって、新鮮。

そうか、いつも美術館で絵を観るときって、歩き回って観ているけれど、
それって実は最善じゃないと思う。
たまーに休憩用の椅子があるけど、そこまでがんばって絵を観ないといけない?
だから美術館って映画館よりも敷居が高いんじゃない?

画廊なんかだと座ってみれるし、コーヒー飲みながら観れるし、お菓子もあるし、
ワインが出てくるときだってそんなに珍しいことじゃない。
事実、私はお酒片手に絵を観るのがとても好き。
身体がリラックスすれば、絵の見方もかわる。
そうだよ、立って絵を観る必要なんかない。
たまには座って、寝っころがって、しゃがんで、ひざまずいて観たっていい。
美術館もそんなふうにベストの状態で絵を観るようになればいいのに。
http://www.mot-art-museum.jp/alys/

「アントニオ・ロペス展」(Bunkamura)つづき

アントニオ・ロペス展を鑑た。
スペインで活躍中のリアリズム作家。
日本で今流行に極みみある「写実ブーム」だが、いったい写実とは何か?を
問い直す最高の機会を、bunkamuraがつくってくれたと思う。

ロペスの作品は決して写真ではない。
確かに画像で鑑ると、写真のようにリアルに見えるけれど、
本物を鑑るとむしろ、絵っぽさが引き立っている。

リアリズム(写実)って、そもそも何?見たまんまを描くことか?否。
「視覚的な意味で見えた通りに描く表現技法としてのリアリズム」と
「精神的な意味で物事の真実に近づこうとする態度そのものとしてのリアリズム」
があって、その整理をきちんとしないと話は始まらない。
日本の画壇はそこをはき違えている人が多い。
ロペスの描く絵は後者だし、意図的に対象を“変容”させている。
変容させることによってそこに宿る秘密や夢を描いている。
あくまでロペスの絵は主観的だ。
歴史を振り返れば、ベラスケスは現実にそんなふうに解釈は加えない、
だからベラスケスは前者ということになる。
高橋由一のあの鮭は、前者か後者か。そしてそれ以降の日本におけるリアリズムを
いったい誰が整理してきたのか。
今の日本の写実迷走をもう一度見直す鍵はロペスの作品にあるのは間違いない。

こんなことをロペスが言っていた。
「最初に受ける感動を表現する能力は、現実の世界を正確にコピーする技量や正確さとは別物だ」。
見たままではなく、そこに自分のフィクションを盛り込むということ。
むしろ、作品よりもその対象といかに向き合うかが大事だということ。
例えば花なんかは5分後には姿が変化している。どんな花だろうと確実に。
だから植物の一瞬をとらえることはできない。だから画家はそこに向き合って結果得た何かを取り入れる。
それが“変容”である。
みずみずしさを取り入れたり、太陽のまぶしさを取り入れたり、重みを取り入れたり。

絵を鑑るときに、自然とその作品の「色彩」に目が行くけれど、本当に大切なのは、
むしろ、「形」や「ボリューム」そして「対象間にまたがる距離感」。
作品と対象との間をゆっくりと行き来すること、それが絵を鑑るってことなんだと。
旅をする感覚に近いと思う。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/13_lopez.html

「夏目漱石の美術世界展」(東京都藝大美術館)

夏目漱石の美術世界展」を鑑た。
@藝大美術館
http://www.tokyo-np.co.jp/event/soseki/outline.html

まさに漱石脳内美術館。
「吾輩」の装丁から始まり、
漱石が留学時代に見た
ターナー、ロセッティ、
ジョン・エヴァレット・ミレイ
サルヴァトール・ローザ……。
大学時代によく見た懐かしい名前がずらり。

中盤では『草枕』『三四郎』などから、
モチーフになった作品の紹介。
小説の引用部分もあるので、
小説を知らない人でも楽しめる。
黒田清輝和田英作が、
登場人物のモデルだなんて知らなかった。

そして何より漱石の美術傾倒ぶりにびっくり。
青木繁岸田劉生、萬鉄五郎
……この時代、まさに洋画壇の全盛期!
漱石の芸術論や数々の手紙をみれば、
彼らと深い親交があったことが分かり、

美術と文学が近い時代だったんだと改めて実感。
いいなあ、この時代。

実は漱石自身も絵を描いていて、
最終コーナーには自筆作品と原稿があった。
文学展と美術展のはざまと言うのか、
どちらかの知識がなくとも楽しめるというのがよい。
こういう展覧会はもっとあっていい。

村上春樹の小説に音楽が多いように、
江國香織のエッセイに絵画に関するものが多いように、
伊坂幸太郎の小説に芸術家が多いように、
どこかしらリンクはしているんだけど、
現代とはリンクしていない。
現代の文学や美学はもっと重なっていい。
もっと乱れていい。


ところで。
芸大からの帰り道、谷中銀座を通る。
ここはかつて城下町だったところ。
幸田露伴五重塔』の舞台だったり、
お寺が多い町。
今は古民家を改装したブックカフェや古本屋、
オシャレな雑貨屋が並ぶ。
おみやげ屋が軒を連ねるは小京都。
階段を降りながら見る夕焼け。

良い雰囲気だなー、
ここで画廊喫茶かbarをやりたいなー。
物価もそんなに高くはないらしい。

そこには、古本や雑誌、アートを置いて。
この業界に入ってわかったけれど、
ほんの少し身体にアルコールを入れて、
絵を鑑ると、全然違ってみえてくる。
ワイン片手の絵画鑑賞は本当に至福。

自分で創ったフリーペーパーもおいたり。
小説家と画家が集まる場所になれば、いいな。

上野の美術館からでも歩いて行けるし、
根津・千駄木は活気がある。
アートが生まれる場所があるって素敵!

そんなアートな半日でした。

村上春樹『色彩をもたない多崎つくると彼の巡礼の年』

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』について

 ネタバレなし。引用あり。

 
 ストーリーは興味深くて最後まで読ませるだけの力はあったし、
「色彩」を軸に小説を進めつつ、
 彼とヒロインとの会話は素晴らしいものであったけれど、
 構成に関しては不満たらたら……伏線は微妙なまま、
 ラストも曖昧にすればいいっってものじゃない。
 今までの春樹の小説は、密に構成されていて、読者が逃げ場がなくどっぷり小説に捕まっていた。
 満足感や感動を春樹の本に求めるのはお門違いだけれど、
 今回は『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』と『1Q84』が混合させて焼き増しさせているだけ。
 
 ノルウェイの森=主人公の成り立ち/性格/クライマックスからラストにかけての展開
 海辺のカフカ=物語の進め方、登場人物の立ち位置
 1Q84=小説の伏線にあるストーリー、無意識に繰り広げられる性描写

 『スプートニクの恋人』やエッセイ本のほうがオリジナルに溢れている。
 つまり、往々にして本屋で売れているからといって、それが名作というわけではない。
 それは美術の展覧会に関しても同じことが言えると思う。
 この本が名作だと思う人がいるのはそれは人それぞれの感覚だから良いのだけれど、
 ベストセラーだからこの本は面白い!とは言えない。
 
 とはいうものの、春樹の作家としての才能は、小説内にふんだんに発揮されていた。
 特に会話文は、展開を紡いでいく小さな糸のようだった。カラフルな糸。
 何本かの糸の繊維には、「色の原石」が編み込まれていたように思う。こまやかに。
 
===ヒロインが主人公つくるの過去を聞いたときの相づち。
「限定された目的は人生を簡潔にする」(P23)

===工科大の後輩の台詞。彼の思考(省察)に関する話。
「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです」
(中略)
「思考とは髭のようなものだ。成長するまで生えてこない。たしか誰かがそう言った」とつくるは言った。「誰だったか覚えていないけれど」
ヴォルテールです」と年下の学生は言った。(P66)

==="美しき共同体”のメンバーの一人、エリとの会話。
「僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない(中略)。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているかもしれないけれど、その中には内容と呼べるほどのものはろくすっぽない(中略)」
「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない」とエリは言った。「もしそうだとしても、君は素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰にもわかりはしない。そう思わない? それなら君は、どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に」(P322)

「君は色彩を欠いてなんかいない。(中略)自信と勇気を持ちなさい。君に必要なのはそれだけだよ。怯えがつまらないプライドのために、大事な人を失ったりしちゃいけない」(P328)

===
多くの人が、怯えやつまらないプライドを抱えながら、自分の色彩を探したり、
空っぽの容器に何かを満たそうとしたりして、必死になっている。
そして、色や満たすものを見つけてしまえば人生はスムーズに進むのだと思う。
だけど、それは髭を生やしているとは言えない。ちっとも素敵じゃない。
ただ決められたカラーの中で自分が選んだだけのコーディネート。ちっともオリジナルじゃない。

絵画が色や形だけでは傑作が生まれないように、
人も個性やスタイル、夢があれば幸せかというわけではない。
大事なものは自分の中身ではない。決して。
今回の春樹の小説は、勇気と自信と思考という、人間の「容器」ーー
つまり自分を司どる物の話。

それは、色に例えていうと、色が「色」として発生する前、
粉や岩といった原石として佇んでいる「ゆくゆくは色になるもの」を垣間見せてくれる小説。

原石を紡ぐ小説を、初めて読んだ。

 

「五百住乙人展」(京橋・金井画廊)

良い絵があった。

「うずくまる」F8号 五百住乙人


「緑だ」と思った。全体が緑がかっている。
真ん中に大きく描かれた女性は横向きで、ひざをかかえてうずくまっている。
その女性と背景も全て淡い緑色。
女性は沈んでいるわけでも考え込んでいるわけでもなく、
そこにただ静かにうずくまっている。

額は濃い青。
しかも古びた作りでところどころ色がはげかかっている。
レトロなこの青と緑のバランスがすごく良い。


今まで何度か足を運んだことのある画廊だったが、
初めて壁の隅に大きな古時計がかかっているのに気がついた。
まさに「大きな古時計」。
天井まである。大きな文字盤。
よく見れば10時半過ぎでそれはとまっていた。


こんな画廊でこんな絵が架かっている物語を描きたいな、と思った。


30代の女性が主人公。この画廊に一枚の絵を持ってくる。
女性「この絵、買い取っていただけませんか。売り絵にならないのなら、お金はいただきませんので、受け取ってください」
画廊オーナー「この絵は、あなたなんでしょう?そして手離すには理由があるんでしょう」

女性にはかつてすごくすごく好きだった男性がいた。
でもその男性とは結ばれなかったという。
彼には既に好きな人がいたという。
その彼が最後に描いた一枚なのだと。
彼はその女性(主人公)をモデルに絵を描いた。何度も何度も。

画廊オーナー「彼はあなたのことを好きだったんじゃないですか」
女性「さあ、どうかしら。聞いても教えてくれないでしょうし、
本人にもわからないと思う」
彼女はその男性と結ばれることがなくても、ずっと彼を愛し続けていた。
愛されなくても幸せだった。


だから、ずっとこの絵を持っていた。

女性「だけどね、もういらないんです。もう書けたから」
彼女は実は作家志望。彼を主人公に物語を書いたという。
彼を物語の中に登場させることができたから、
本当の意味でさよならができるのだと。

画廊オーナーはその物語をぜひ見たいという。すると女性はこう一言。
「いつか、この絵が表紙の本を見つけたら、読んでみて」
そう言って、彼女は颯爽と去って行く。
そんな物語。

絵に刻む

絵を観るのと、本を読んだり映画を観たりするというのは、
全然違うと思う。

絵を観るのは、絵から何かをもらうだけじゃなく、
絵に、自分の何かを刻む感覚に近い。

部屋の片隅に飾ってある絵は、
とある洋画家が描いた男女の絵。
冷蔵庫近くに張ってあるカレンダーの原画を描いた人と同じ人だ。
静物も風景も建物も描く作家。
少し暗くて哀しくて、形もデフォルメされてて、
ねじれたり歪んだり曲がったり。

部屋で一人でいるとき、大抵その絵を観ている。
考え事をしているとき、
悩み事をしているとき、
朝起きてぼーっとしているとき、
一人で夜、お酒を飲んでいるとき・・・。
私の友人みたいなもので、
私のすべてを共有されている感じさえする。

その絵は額から出ることなく、
(つまり、ある程度の距離を保ったまま)
これからの私の人生に存在し続ける。

そう思ったら、どんな絵を部屋に置いて、
愛して、日々過ごしていくかということは、
自分がどんな人間なのかがよくわかる。

食べ物が人の身体を作るように、
絵が、音楽が、言葉が、人の心を創る。

好きな人と生きていきたいように、
好きな絵と生きていきたい。

「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー展」(横浜美術館)

ロバート・キャパゲルダ・タロー
@横浜美術館

沢木耕太郎『キャパの十字架』をようやく読み終え、美術館に行けた。

ゲルダ
同じ女性として、ゲルダの生き方は衝撃的だけど、
その激しさが作品にも見てとれた。
26歳で取材中に命を落とし、
以来、キャパの恋人としか評価されてこなかった彼女が、
ようやく今回再評価。
沢木の本を読んでも同様の感想を持った。


キャパ。
今回なにより感動したのは「崩れ落ちる兵士」でもなく、
ノルマンディー上陸の写真。
腰まである海に身を投げ出し、
ドイツ軍からの銃撃を避けながら、
振り返っては上陸する兵士を撮影した。
ちょっとぶれてる
(後にそういうタイトルの自伝を出した)
写真だが、その場の混乱がよく見てとれた。
NHKの「その時歴史が動いた」を観たときの記憶が蘇る。

二人が共に取材したスペイン内戦に時を戻せば、
浮かぶのはピカソの「ゲルニカ」。
間違いなく「崩れ落ちる兵士」と共にスペイン内戦を代表する作品だろう。
ピカソもキャパの撮影した写真に写っていた。

ピカソだけじゃない。
ヘミングウェイも写っていた。
彼も記者としてスペイン内戦を取材し『誰がために鐘は鳴る』が生まれた。

そんな時代だ。
二人の写真から忘れていた「戦争」をあらためて感じた。


美術館をあとにしてから思い出した。
私が昨年書いた画廊の物語の舞台設定に
第二次世界大戦を取り入れたこと。
そもそも、小学校時代に書くことを始めたきっかけが
戦争時に書かれた『アンネの日記』だったこと。
大学時代、どうしてもアウシュビッツに行きたくて、足を運んだこと。
大学のときに創りたい雑誌のテーマのひとつが戦争だったこと。
2年前、広島の原爆ドームを歩いて、
体験者に話を聞いたこと。
多分、私のルーツのひとつはこの「戦争」にある気がする。


他にも書きたいことはあるけれど、とりあえず。