安倍龍太郎 『等伯』
戦国時代。嵐のような時代。
その時を駆け抜けた絵師の中で、
政(まつり)事と関わらずに
名を残した者がいるだろうか。
時代を代表する狩野永徳も
力強い筆致で信長の肖像画を描いたが、
のちに秀吉の命令によって
暗い絵に描き直させられている。
一度は完成した絵の描き直しをすることは
絵師にとって屈辱的。
それが権力誇示のためなら、なおさらである。
そんな風に時代に翻弄されながら
永徳も今に名を残した。
この小説の主人公・等伯も然り。
永徳に仕事を横取りされたり、
仕事をとるために幕府に掛け合ったり。
能登から上京した等伯が長谷川派を築くために
手放したものは数知れない。
それでも「松林図」が描けたのは、
名を残したいという気持ちだけではなく、
描く事へのひたむきさがあったからだと思う。
そして……
そのひたむきさを持ち続けることが出来たのは、
等伯が心の師として慕った、利休の存在がある。
秀吉と三成によって自害させられる直前、
利休が等伯にこう語る。
「わしには茶の湯の門、お前には絵師の門がある。門の外のことは仕方がないが、内側は自分の世界や。命をかけて守らんでどうする」
自らの手で切り開いてきたことへの誇り、
一切の妥協を許さないプライド、
命代えてまで守り通したい自分の世界。
そんな利休の生き様を見届けたからこそ、
等伯は「松林図」を描けた。
利休だけではない。
あの絵を描くことができた等伯は、
両親、養父母、妻、兄、息子、
敵対していた永徳など、
亡き者たちを背中に背負っていた。
***
「生き残った者にできるのは、死んだ者を背負って生きることだけや。(中略)わしが死んだと聞いたなら」
利休は文机につくなり等白と書いた。
「白は無の境地ということや。これからは死んだ者を背負ったまま、そこに向かっていけ」
そう言うなり白の字に人偏を加えた。等伯という名乗りは、この遺訓に従ったものだった。
(本文より)
***
人は一人では生きていけないという。
それは、「支えあい」という意味だけではなく、
自分が背負うべき人々がいるという意味。
誰の過去にもあるだろう、
傷つけてしまった人、別れてきた人、
去った土地、手放してきたもの。
利休はそれを背負えと説いた。
踏みにじるでもなく、逃げるでもなく、
罪悪感に苛まれ続けるのでもなく、
向き合い、背負っていく。
それが何よりの供養であり、礼儀だと。
「松林図」は、400年を背負い、それを今を生きる私たちに伝えてくれる。
……とここまで書いて、ふと、
背中の重みって何だろう、と。
それは他人ではなく、実は自分の重さ?
実は自分で決めた重さ?
重みが日々変わっていく私にはまだわからない、
他人の重さ。存在の軽さ。
耐えきれないほどの軽さに押し潰されそうになりながら、背負おうとしてみたり、置いてきてみたり。