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村上春樹、川上未映子『みみずくは黄昏に飛び立つ』

 

 

なぜ村上春樹だけが、こんなにも個性のある作家と言われているのだろうか。さまざまな文体が駆使できること、神秘的な世界観、ありえない登場人物、目の見えない“何か”との対決──。特筆すべき個性は確かに数多い。

『みみずくは黄昏に飛び立つ』は、薄闇に包まれていた村上春樹の文学観や作家としての目指す先、小説の書き方などが白日の下にさらされて(しまって)いる。昨今、多くの批評家が村上春樹論を論じている中で、それらを全て一掃してしまうような内容がぎっしり。352ページ。

 何より、川上未映子を起用したのが、良かった。川上未映子がこんなにも村上春樹に影響を受けていて、「もう二度と話を聞けないかもしれないから、世界中の人々を代表して話を聞く」と自負しているだけあって、熱心に下調べをしていることがわかる。しかし村上氏が、わざとなのか本当なのか、「そんなこと書いたっけ?」「そんなこと言ったっけ?」と切り返す場面も多く、川上未映子は負けじと「ここに書いてあるんですよ!」と食い下がる場面が多々ある。

 例えば、川上未映子が『騎士団長殺し』の副題にある「イデア」という言葉を理解するために、プラトンの本を紐解き「イデア」についてまとめてきたにもかかわらず、村上春樹がこう答えている。

「僕はただそれを『イデア』と名づけただけで、本当のイデアというか、プラトンイデアとは無関係です。ただイデアという言葉を借りただけ。言葉の響きが好きだったから。(p.155)」

「おれたち『イデア団』『メタファー団』の団員なんで、ひとつよろしく。みたいに思ってもらったほうがいいんじゃないかな。(p.321)」 

そんな。川上未映子はもちろん、読者も茫然となる。

 

 小説の書き方について訊かれると、日本人作家とは違うと思わざる得ない姿勢・考え方が垣間見える。

僕はもう四十年近くいちおうプロとして小説を書いていますが、それで自分がこれまで何をやってきたかというと、文体を作ること、ほとんどそれだけです。とにかく文章を少しでも上手なものにすること、自分の文体をより強固なものにすること、おおむねそれしか考えてないです。ストーリーみたいなものは、そのたびに浮かんできて、それに合わせて書いていますが、そんなのは結局向こうからやって来るものであって、僕はそれをただレシーブしているだけです。(p,120) 

村上ワールドというものは、非現実性でもメタファーでもなんでもなくて、ある日ふっと浮かんでくる、特段に意味などない世界だということらしい。むろん、実体験でもない。 

ああこれ、自分の実体験をなんとか相対化しようとして書いてるんだなとか。それでは物語が浅くなってしまうし、そういうのは僕はあまり好きではない。(p.181)

 村上春樹が多用している比喩については、

比喩っていうのは、意味性を浮き彫りにするための落差であると。だからその落差のあるべき幅を、自分の中で感覚的にいったん設定しちゃえば、ここにこれがあってここから落差を逆算していって、だいたいこのへんだなあっていうのは、目分量でわかります。逆算するのがコツなんです。ここですとんとうまく落差を与えておけば、読者ははっとして目が覚めるだろうと。(p.24)

比喩とは、あくまで文体としてのテクニックであり、小説としてのカリスマ性とか独特の哲学があるわけでもない。だとすれば、村上春樹の世界は、文体によって構成されているほかないのだ、ということがわかる。

人類の歴史のなかで、物語の系譜が途切れたことはありません。僕の知る限り、ただの一度もない。(…)どれだけ本を焼いても、作家を埋めて殺しても、書物を読む人を残らず刑務所へ送っても、教育システムを潰して子供に字を教えなくても、人は森の奥にこもって物語を語り継ぐんです。(…)たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ。フェイスブックとかツイッターとかの歴史なんて、まだ十年も経っていないわけじゃないですか。(…)それに比べれば、物語はたぶん四万年も五万年も続いているんだもの。蓄積が全然違います。恐れることは何もない。物語はそう簡単にくたばらない。(p,338)

そんなきれいなまとめ方をしているものの、私はやっぱりむしろ「川上未映子はどうですか?」という締めも加えてほしいくらいだった。