たまに映画、展覧会、音楽など。

村上春樹 『スプートニクの恋人』

彼がやってきた。

こんな文章も書けるんだね、知らなかったよ。


私は、素敵な文章を書く人が好き。
いつも恋をしてしまう。いつも、いつまでも。

今までの文章は明確でかつ緻密で、読者にどこにも入らせる隙を与えなかったのに、
回はまるでジェットコースターにのっているように文体がころころ変わった。

そんなあなたを、本当に心から尊敬するし、
あなたの描く世界、あなたの紡ぐ文章を愛してしまう。いつも、いつまでも。

すみれの日記の章は、全て書きうつして、
この愛すべき文体がどう構成されているのか、紐解かないと気が済まないまでになってしまった。

これぞ恋。いつも、いつまでも私は恋をしてしまう。どこも、どこまでも。


語り手からのすみれの話、すみれが語り手に語る話、
すみれの日記、ミュウが語り手に話す話、
すみれがミュウから聞いてそれを日記で書く話、
語り手自身の話、

すべて文体を変えている。ころころところりんと。なんてまあ。
文体実験。文体?


語り手自身は、物語の流れのほとんど関係なく、
すみれのキャラクターは崩壊しており(ミュウも実は崩壊)、
とってつけたような語り手と教え子の出来事が介入する。

「物語の語りは、普通だれかの人生経験をことばにすると思われているが、
書いたり読んだりするときに、その経験に生じる<隙間>である。
語りとはこの永続する直接性からの置き換えを時間の軸にそってアレゴリー化していくことである」

(J・ヒリス・ミラー『アリアドネの糸――物語の線』 英宝社


さまざまな<間合い>がこの小説には存在する、常に。意識的に。
そしてその間合いが一番官能的(という言葉しか、今の私は思いつかない!)
なのが、すみれの日記の章だ。


(本文より)

「いったい誰に、海と、海が反映させるものを見分けることができるだろう? 
 あるいは雨降りと淋しさを見分けることができるだろう?
そのようにしてわたしは、知と非知をよりわけることをいさぎよく放棄する。

それがわたしの出発点だ。考えようによってはひどい出発点かもしれない。
でも人は、うむ、とりあえずどこかから出発しなくてはならない。
そうだよね? 
というようなわけで、テーマと文体、主体と客体、原因と結果、
わたしとわたしの手の関節、
すべてはよりわけ不可能なるものとして認識されることになる。
すべての粉は台所の床にちらばって、
塩も胡椒も小麦粉も片栗粉もひとつに混じってしまう――言うなれば。



そのようにしてわたしたちは混乱し、見失い……そして何かに衝突する。どすん。」



アリアドネの糸を手繰り寄せる文章だってある。
同じく日記の章だ。

「この文章は自分自身にあてたメッセージだ。
 それはブーメランに似ている。
 それは投じられ、遠くの闇を切り裂き、気の毒なカンガルーの小さな魂を冷やし、
やがてわたしの手の中に戻ってくる。
 帰ってきたブーメランは、投げられたブーメランと同じものではない。
 わたしにはそれがわかる。ブーメラン、ブーメラン。」
 

このブーメランはときに、比喩の問題へと転化する。

記号と象徴の違いを鮮やかにといてみせたあなたにとって、
きっと、この小説の比喩が、大きなテーマの象徴となっているんでしょう?

ここでは記号と象徴の違いを割愛するけれど、比喩と象徴の違いって、
比喩はBをB’にするけれど、象徴はBをAにしてしまう。

天皇は日本の象徴だけれど、天皇は日本の比喩ではなく、天皇は、日本の中に含まれている。
ということは、比喩は=でつなぐことのできないものを、
=ではなくまた違うものにつなぐ、特殊な存在……比喩、比喩??


きっと、何かしらの代償が必要だったのだ。
それが犬ののどを切るというのが比喩であったということならば。

ゾク。
背筋のぞくっとしたのは、風邪をひいていたからでも、
もちろん冷房が効いていたせいでもない。




そうよね?
そのとおり!



スプートニクの恋人』 村上春樹