たまに映画、展覧会、音楽など。

多和田葉子『雪の練習生』

 

雪の練習生

雪の練習生

「読書をするなら、自分には理解できないかもと思う本を選べ」

という言葉を聴いたことがあるけれど、この本はまさに今まで読んだことのないタイプの本だった。3つの中編小説から成るが、主人公はクマ。しかも1編目は自伝を書くクマ、2編目の熊はサーカスのスター、3編目は動物園で産まれ飼育員に育てられた小グマで、通して読めば3代にわたるクマ一家の物語になっている。

 自伝を書くクマ、ということからもわかるように、普通のクマではない。かといって、擬人化されているわけではなく、姿はもちろん熊であり、ミルクを飲み、魚を食べる。その設定から度肝をぬかれた。というか、事前情報無しに読み始め、何だか分からず(「私は熊だ」とは書いていないからだ。小説で「私は人間だ」と書いていないように、ごく当たり前に物語が始まっている!!)、読み進める途中ではっと表紙の絵と題名を思い出し、クマだと悟る。これは冒頭ではなく途中の文章。

 生まれた時は真っ暗で、何も聞こえなかった。隣にある暖かいかたまりに身体を押しつけ、そのかたまりから突起している乳首を探り宛てて甘い汁を飲んで眠る。この暖かいかたまりをクママと呼ぶことにする。(113頁)

 私が最も気に行ったのは最後の中編、クヌートという小グマの物語だった。飼育員に育てられているクヌートは、自分だけなぜ“白くて小さくてもふもふしている”のか分からず、けれどミルクを与えられて一心不乱に飲む。文章からクマのかわいらしさが溢れていて、ころころと転がる姿、動物園の人気者となって園内を駆け回る姿、飼育員に甘える姿、全てがとにかくかわいい。遊びすぎて白くもふもふが、茶色のぐちゃぐちゃになるのもとにかくかわいい。そんな愛らしさをクマ一人称で体現している多和田葉子はやっぱり類をみない作家だと思う。

お腹がすいていなくても、手が勝手に木箱の内側を引っ掻いて、外を欲しがる。外の光景を一目見ようとして、首が勝手に長く伸びる。生きるということはどうやら外へ出たいという気持ちのことらしい。(167頁)

動物のかわいらしさだけでなく、カフカのような文体でクマが哲学を語るところも多々ある。 

それにしてもマティアスはいつになったら姿を現すんだろう。そう考え始めると我慢できなくなってきて、これが「時間」というものなのだ、と突然クヌートは悟った。窓がだんだん明るくなっていく、その遅さ、それが時間だ。時間というものは一度現れるといつ終わるか分からない。もうこれ以上耐えられないと感じた頃やっとマティアスの足音が近づいてくる。それからドアを開ける音がして、マティアスが箱の中を覗き込んで、クヌートを抱き上げ、鼻と鼻をくっつけて、「おはよう、クヌート」と挨拶する。「時間」はその時点で消えてなくなる。においを嗅ぐこと、ミルクを飲むこと、遊ぶことなど、やることが次々できて忙しくて、時間について考えることができなくなるからだ。でもマティアスがいなくなった瞬間、また「時間」が始まる。(中略)時間というのは、噛みついても引っ掻いてもびくともしない孤独の塊だ。(185頁)

 

以前紹介した旅エッセイと比べ、独特の文体に主人公がクマというのはいささか読みにくいかもしれないので、多和田葉子事始めなら、3つ目の小説から始めるのも良いかもしれない。けれど昨今のベストセラー小説にはない、手ごたえのある読書体験ができるように思う。

江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』

 

なかなか暮れない夏の夕暮れ

なかなか暮れない夏の夕暮れ

 

 海外のサスペンス小説にのめり込んでいる中年男性の小説。

と書いてしまうと何だか渋いような気がしてしまうけれど、その中年男性は、結婚はしていないものの認知している子どもがいて、家の財産管理だけで生計が成り立ってしまうほどのお金持ちで、時間さえあれば本を読んでいるという人なのである。と書いてしまうと、社会から逸脱している人のような気がしてしまうけれど、事実そうである。お金と時間をもてあましている人の物語。だから、物語はもちろん何か大きな出来事など起こらず、淡々と進む。江國香織の本が好きな人が求める世界の静けさと文章がひたすらに続く。

 江國香織の著作のなかで今回特筆すべきなのは、主人公が読む小説と、物語の世界が交互に出てくる点。普段江國が書くことのない、サスペンス(拳銃、暗殺、謎、スパイ……)

が登場する。当然文体も異なるのだが、本物のサスペンス小説とはならず、おそらく江國さん自身もそれを面白く読ませようとしているわけではなく、だからこそ少し残念なことに、読みにくさが出てきてしまっている。もともと、最近の著作では、平仮名ばかりの章があったり、複数の語り手を登場させたりと読みにくさあって然りのものが多く、おそらくそのあたりは論点ではないのだろう。

主人公の読む小説の世界と、現実(本来の小説)の世界との切り替えが、ぱちっ、ぱちっ、と急に切り替わっていくのが面白い。その切り替えは基本的に一行空けるのが原則なのに、ラストになるとその一行空きがなくなり、(主人公にとって)切り替えがだんだんと難しくなっていっているのが分かる。自分の身体を読んでいる本のなかに置いてきてしまったような感覚。誰もが感じたことのあるその感覚を、文章で表現したのが今作なのだと思う。

 

 本好きな主人公以外に、何人か本を読む人物が登場する。次の文章は、雀(主人公の姉、中年)、波十(主人公の子ども、小学生)が部屋に遊びに来た場面。

 

 部屋のなかが随分静かなことに気づき、見ると雀と波十も本を読んでいた。ソファの端と端に離れて坐り、どちらも真剣な表情で。刃物で削いだような姉の頬と、ふっくらした娘の頬、白髪まじりのおかっぱ頭と、黒々としたショートカットの、前髪がピンで留められた頭。(中略)どちらも本から顔をあげない。稔には、自分だけ本の外にいることが不当に──というか、ほとんど疎外されているようで淋しく──感じられ、抗いきれずに寝椅子に──そしてモーナとアンナのいるオスロに──戻る。(202、203頁)

 

 この波十という少女は、江國香織お得意の「大人っぽい子ども」で、本ばかり読んでいて、自分の父親らしい主人公と、母の再婚相手という父親の2人がいても動じることなく、自分を貫くその姿勢がいかにも江國さんの登場する少女らしくて好感をもった。もう少し大きくなると『綿菓子』の主人公の女の子になるかのよう。この子も本ばかり読んでいる。

 どこに行くにも本が鞄のなかにあるという人、読みかけの本がないと心が澱んでしまうという人、移動や待ち時間に本を読んでしまうという人、そういう人が頻繁に遭遇する小説と現実との行き来を表した小説。自分もそうかも、という人はきっと共感できるはず。

「エリザベス・ペイトン展:Still life 静/光」(原美術館)

 

どんな絵なのかを言葉で表現し難しい絵だった。でも、とてもよかった。 色も形も構想もマチエールもとてもよかった。

 

人物画、静物画とあるけれど、最初はマティスに少し似ていると思い、マネのようだという感想を聞き、ピカソのような佇まいの絵もあれば、「そうだ、ドガだ!」と思う作品もあった。(実際に解説に大家たちに典拠しながら、独自の色を付けていったとあった)。

要するに、オリジナリティがとても高いのだと思う。だから私には、それに見合う言葉が見つけられなかった。(独特のタッチとか、明るく透明感のある色彩とか、画面一杯に溢れる画力とか、そういうのであれば書けるけれど、でもそれは抽象的すぎる)

 

ただ、最初から最後まで変わらなかったのは、江國香織さんが好きそうな絵だということ(これも抽象的)。江國ファンが言うのだから、たぶんこれはもう絶対だ。

《眠るカート》(少女が本をもったまま、自分の腕を枕にして居眠りをしている)や、《ティム(横顔)》(紫や青、オレンジなど様々な色を使って描いた男性の横顔)など、そこにまるで物語が潜んでいそうな絵ばかりだからと思う。

特に江國香織らしいなと思ったのは、色だった。青、オレンジ、赤、ピンク、黒など、全ての色が油絵にも水彩画にも清澄感を称えたまま、色濃く描かれていた。それがどこか、江國香織の文体を思い起こさせた。

 

1965年生まれ、ニューヨークで美術を学んだペイトンは、1993年のチェルシーホテルの部屋でおこなわれた個展を契機に、人気画家となる(日本でも過去に展覧会をしている)。キスし合う人物画には、女性特有の艶めかしさがあって、一方、静物画には女性らしさはなく、そこには激しさがあって本当に形容しがたい画家。

 

原美術館の真っ白な回廊に、ペイトンの色とりどりの作品はよく似合っていた。

 

http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/EfqidXFuato43SHDrU1Y/

多和田葉子『溶ける街 透ける路』

 

溶ける街 透ける路

溶ける街 透ける路

 

 

「あ、この作家は当たりだ」と本を開いた瞬間にわかってしまい、思わず閉じてしまった。まず言葉の選び方が他と違っていた。甘すぎず、硬すぎず、柔らかだけど薫りすぎることがなく、知的で豊かで美しい文章。名前は多和田葉子という名前だった。

 多和田葉子は、日本ではあまり知られていないような気がする。20代の頃にドイツ・ハンブルクにわたり、ドイツ語と日本語の二ヶ国語詩集を出版し、作家となる。日本では芥川賞泉鏡花賞などの賞ももちろん受賞しているのだが、現在ベルリンに住んでいる彼女の本は東京の本屋で平積みされるような作家ではない。しかし、長い海外生活だからこそ書くことのできる視点、言葉の力がある。

 

 この本に入る前に、もう少しだけ彼女の魅力について書いておく。フランツ・カフカの『変身』を彼女は訳しているので、その冒頭について。通常の冒頭は、

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた」(カフカ『変身』岩波文庫山下肇訳)。

しかし多和田葉子の手にかかるとこうである。

グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた」(2015年5月号『すばる』)。

 通常の日本語である「何時・誰が」ではなく、「誰が・何時のこと」というドイツ語と同じ順番で書き出していること、“夢”のニュアンスが全く違うこと、そして何より“毒虫”が“ウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)”という長い言葉に訳されていること。過去何作も訳は出されているにも関わらず、ここまで原語に迫った訳はないだろう。これぞ、ドイツに住んで言葉を身体で吸収している多和田葉子節だと思う。

 

 さてこの本はエッセイなのだが、初めて彼女の本を読むのであれば、小説ではなくまずはエッセイから入るのがベストだと思う。なにせ小説は、カフカも顔負けのびっくりするような設定・構成なので、読む前に抗体をつけておいたほうがよい。

  

内容は彼女が世界各国を朗読会や講演会などで足を運んだ記録をしたためたもの。シアトル、ボルドー、パリ、デュイスブルクトゥールーズなど、初めて聴く町の名が登場し、彼女はそこで仕事をするかたわら美術館に行ったり友人にあったり、本屋に行ったりする。読んでいてまず目につくのは、海外ならではの文学イベントの豊富さだ。

 例えばリューネブルクでは、まず多和田葉子が日本語で詩を朗読する。現地の子どもたちはその知らない言語を聴きとり、聴いたままを声で再現する。するとその声に対して他の子どもが楽器で即興音楽をするというもの。本書で多和田葉子はこう書き綴っていた。

「自分の理解できない言語に耳を澄ますのはとても難しい作業だが(…)繊細で果敢で好奇心に満ちた耳が、かつての日本にもあったはずだと思う。それができなければ、異質な響きをすべて拒否する排他的な耳になってしまい、世界が広がらない。創造的な活動は、まず解釈不可能な世界に耳を傾けるところから始まるのではないか、と改めて思った」(166頁)。

 

 ほかにもインスタレーションの記述がある。本棚にずらりと本が入っているが、その本は全て、背表紙を奥にして本棚に本がいれてある。これから読まれるべき無数の頁が無数の溝となって存在しているという。面白い。

 アメリカ、ロシア、エストニアなど、様々な国をまわりながら各国の文化や文学の違い、気候の違いを綴るこのエッセイは、他のエッセイにはない国境間の新鮮さがあると思う。もちろん文章の巧みさも健在している。

 

(文学博物館に入ったとき)「騒がしい町中にありながら敷地に入ったとたんに気持ちが落ち着く。それは「癒される」というような受け身な静けさではなく、「日常の喧騒など忘れて分厚い本でも書け」という励ましを感じさせるしたたかな静けさである。」(12頁)

 

静けさを励ましという言葉に置き換えることのできるこの作家の文章が、私はとても好きだなと思う。

塩田武士『罪の声』

 

罪の声

罪の声

 

 グリコ森永事件をモデルにした小説である。社長の誘拐や、菓子への毒物混入などの重罪を犯したこの事件は、警視庁による重要指定事件となりつつも、昭和史上唯一の未解決事件でもある。

 

 その事件を扱っただけでも取り上げるべき話題ではあるけれど、この小説の優れたポイントは、主人公が2人いることだと私は思う。一人は、身代金要求の声明が幼かった頃の自分の声と一致することに気付いた、とあるテーラーの店主。彼は、亡き父の友人を訪ね、自分の過去と一家の過去を紐解いていく。そしてもう一人の主人公は、グリコ森永事件の真相を手繰り寄せようとする新聞記者。この2人は事件の対極から調査を開始し、すれ違いそうになりながら、すんでのところで巡り合わず、最終的に2人は出会い、真相を手繰り寄せる。

 2人の調査を合わせることで、少しずつ犯人像や動機が見えてくる展開は、貼り絵が重ねあわされていくかのようだった。ジェットコースターのような疾走感というよりも、緻密な貼り絵作業。私は、面白さというよりも作家の技量に引き込まれていた。

 

 残念ながら私は推理小説などあまり読むほうではないので、その目線からみたこの作品の良さについては書くことができないが、作家のテクニックについては多くの感銘を受けたので書くことができる。

「取材力」(それも過去の紙面や情報などを攫うのはもちろん、現場の描写などがとても細かく、実際に足を運んだことが行間から伝わってくる)、「無機質な文体」(新聞記事やノンフィクションを読んでいるような文章、でも描写が細かいのがすごい)、多くの登場人物を出しながらも、巧みに操り効果的に配置することのできる「構成力」、そして、親と子の描き方や子どもという弱き存在の描き方、資本主義に対する抵抗勢力の描き方など、「サイドストーリー」も素晴らしかった。

 

 小説とはこういうものなのだ、こういうものが書けなければ小説とは言えないのだ、と作者が言っているような丁寧な編みっぷり。「貼り絵のように情報の欠片をコツコツと重ね合わせていった結果で、この手法こそが、今も昔もこれからも人々が求め続ける調査報道のあり方だ」という作中の台詞こそが、実はこの小説の魅力なのだろう。

 

 事件関係者に、新聞記者はこう説得する。

「伝言ゲームになった時点で真実ではなくなる。理不尽な形で犯罪に巻き込まれたとき、これまで聞いたことも見たこともない犯罪に直面したとき、社会の構造的欠陥に気付いたとき、私たちはいかにして不幸を軽減するのか。それには一人ひとりが考えるしか方法はないんです。だから、総括が必要で、総括するための言葉が必要なんです」(365頁)

 

 30年以上たった今でも、犯罪に巻き込まれた者(声を使われた子ども)は未だ存命し、罪の意識に苦しんでいる。その罪を担う苦しさと、その罪を描こうとする新聞記者の両面から見ることで、この事件の哀しさだけでなく、資本社会の影も浮かび上がってくるのを感じた。

小川洋子『アンネ・フランクの記憶』

 

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)

「『アンネの日記』に影響を受けて作家になった」と、

小川洋子は言っている。

その小川洋子が、アンネのいたアムステルダムを訪れ、

アンネと関わった人たちに話を聴いたというのが本書。

 

アンネの日記」でしか会ったことのなかった人たちが、

実際に現代も生きている人として登場してくる。

ミープ・ヒース(アンネたちを匿ってくれた女性)や、

幼かったアンネの友達ヨーピーなど。

ただ大きく違うのは、彼女らは、

アンネと生きただけでなく、その後の時代も生きている。

それはつまり、戦争の悲しみ・苦しみを背負っているだけでなく、

アンネが有名になって以降の、彼女たちが背負ってきた

「アンネを知っている人たち」として生きている重み。

 

第二次世界大戦の最中、迫害にあったユダヤ人だけでなく

オランダ人、ドイツ人の人々も苦しみ、

生きることに必死だったことが、小川洋子のインタビューから知った。

 

 

ところで、なぜ日本で『アンネの日記」をここまで読まれ、

浸透してきたのだろうか。

海外では、戦争本というよりもむしろ

“思春期の子どもたちの読む本”としての認識のほうが強いらしい。

日本人はどうなのだろうか。

本来、加害者である日本人は、原爆の悲劇から、

どこか被害者の体裁を抜け出せていないような気がしてしまう。

そしてアンネは“被害者の象徴”として捉えられ、

共感を生んでいるのではないだろうか。

では果たして、『アンネの日記』は、

反戦の象徴であり、人種差別反対を訴える教科書なのだろうか。

 

しかし小川洋子が『アンネの日記』に影響を受けたのは、

そうした意味ではなくむしろ、

純粋に読むことを楽しみ、結果作家を志すことを決める。

シンボル化してしまった『アンネの日記』ではなく、

アンネの日記』の本当の良さを、

小川洋子は当書で旅の記録に重ねながら語っていく。

 

私自身、『アンネの日記』を読んだのは、かれこれ20年以上前だが、

この本を読むことで、『アンネの日記』の価値を改めて知った。

 

歴史に名が残っている本の良さを正確に伝えられる本というのは、

得てして良い本だと、私は思う。

 

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)

 

 

アンネの日記 増補新訂版
 

 

西加奈子『i』

i(アイ)

i(アイ)

アイデンティティのアイ、愛情のアイ、虚数という存在しない「i」、私の「I」。

移民生まれで、アメリカ人と日本人の裕福な夫婦のもとに養子として育った主人公アイ。
この物語は、彼女の「自分探し」をしながら成長していく物語であると同時に、
シリア内戦、戦争や飛行機事故、地震による多数の死者、そして東日本大震災など、
夥しいほどの死者が描かれていく。
こんなにも死者とその人数が載っている文芸書があるだろうか。

アイは裕福な家で育ったゆえに、
シリアや世界中で理由なく多くの命が失われることに罪の意識をもっている。
「自分だけ助かってしまった」という罪悪感。

学生時代のアイはニュースで報道される死者の数
(内戦での志望者の数、阪神淡路大震災での死者の数など)を、ノートに書きつけていく。
まるでそうすることでしか、死者のことを覚えていられないかのように。
その瞬間は心を痛め、寄付をしたり、支援物資を送ったりすることができても、
自分だけ“シリアから救い出されてしまった”という申し訳なさが消えない。
たぶんそれは、西加奈子自身がイランのテヘランで育ち、
エジプトのカイロで小学校時代を過ごした過去も活かされているのだろう。

その葛藤が小説の前半、延々と綴られていく。

その罪悪感が、東日本大震災時での経験とつながる。
アイは初めて「免れなかった」出来事に遭遇し、
原発事故が起こっても東京を離れようとはせず、
安易に両親のいる外国に逃げまた免れることを拒否したのだった。
しかし、被害をこうむり、避難生活を余儀なくされた福島の人たちと、
東京の自分とは、明らかな差があった。
それを東京から出ないことで、“同情心”を少しでも紛らわそうとしたアイの姿
──幸せになることを拒否する人間の姿──は、
前半の“罪悪感”に上塗りされるかのように、小説の後半の核となる。

多くの日本人が、節電に勤しみ、祝事を取りやめ、
ボランティア活動をおこなった3・11。
他者の不遇によって、自らの心に自然と生まれてくる罪悪感や同情心に嫌悪し、苦しむ人間。
西加奈子は、小学校高学年から外国生活から一転、大阪で生活し、
きっと身近に阪神淡路大震災を経験したことだろう。
そして東日本大震災
その経験や、海外の動向などもあわせ、その罪悪感・同情心をよりリアルに描いていったように思える。

その罪の意識をどう乗り越えていくのか。
一見この小説は、まわりの人間に支えられながら、
世界中にあふれている飢餓問題や戦争について想い募らせ、自己を問う物語だが、
そのなかで重要な位置をしめていたのが、アイの妊娠と流産だろう。

もしこの事件がなければ、アイはまわりの人間に感謝しつつも、
裕福な暮らしを続けそれなりの幸せのなかに生き続けた。
それでも物語は成立する。しかし、アイは子を身ごもり、さらには流産をする。
あんなにもノートに書きつけた死者の数のうちのたったの「1」を、
アイは自身の身体で生み出し消してしまう。


その「1」が、題名の「i」と重なって見えてしまう。
一瞬の幸福と、絶望。そして身体から描き出される、既に心臓の止まった胎児。

愛する人との子を生みたいと思ったのは、
生みの親を知らないアイにとって初めて自ら幸せを求めたことだった。
自分と血肉をわけた、本当の家族が欲しいという幸せへの希求。
その幸せを求めるようになって以降、アイはシリア内戦もデモにも興味を失ってしまい、
そのことにも罪の意識をもってしまう。
「所詮人間は、自らの幸せを追い求めてしまう」という希薄な同情心を決定づけた。
さらにもう、ミナはここにはいない。
つまり自身にとって幸せのものがなくなったとき、
初めてアイは、自分で幸せを求め、アイデンティティを確立させていく。
そう考えると、自分の生き方や幸せは、
結局は自分の身に起こることで構成されているという結果に見える。
そんななか、アイは「想い」ということについて述べる。

「渦中の人しか苦しみを語ってはいけないなんてことはないと思う。
 もちろん、興味本位や冷やかしで彼らの気持ちを踏みにじるべきではない。絶対に。
 でも、渦中にいなくても、その人たちのことを思って苦しんでもいいと思う。
 その苦しみが広がって、知らなかった誰かが想像する余地になるんだと思う。
 渦中の苦しみを。それがどういうことなのか、想像でしかないけれど、
 それに実際の力はないかもしれないけれど、想像するってことは
 心を、思いを寄せることだと思う。」(271頁)

「私に起こったこともそう。私のからだの中で赤ん坊が死んで、
 その悲しみは私のものだけど、でもその経験をしていない人たちだって、
 私の悲しみを想像することは出来る。(…)
 それを慮って、一緒に苦しんでくれることは出来る。
 想像するというその力だけで亡くなった子どもは戻ってこないけど、
 でも、私の心は取り戻せる」(271頁)


シリア内戦や東日本大震災を契機とするデモ運動、
東日本大震災に受け止め方など、
自分と近しいようで遠く感じていた出来事をどう扱えば良いのか。
そしてこうして文章を書いている今も、
この本についてどう書けばよいのか分からず、
初めて数回書きなおしをした。結局、これだという答えは出なかった。

この小説を読みきることで、難民の存在や戦争の問題が、
少し自分と距離が近くなった気がする。
他人の不幸ではなく、想いを寄せることのできる不幸として。

東日本大震災から6年。この小説はきっと震災に寄り添って遺っていくだろう。