たまに映画、展覧会、音楽など。

「樹と言葉展」(高知県立牧野植物園)

〜牧野植物園にて、いしいしんじトークライブに行ってきました。


今、“目の前で”小説が紡がれていく。

カリカリという鉛筆の音と、言葉を読み上げていく声だけが、
小説が生まれていく瞬間を刻みつける。
鉛筆の黒鉛の先から形づくられている言葉は、
葉が枝から離れ、風でふわりと飛ばされていくように、
原稿用紙を越えて、わたしたちほうへ届けられる。

音もなく、色もなく、形もない言葉が、
たぷりたぷりと、わたしたちの心へ染み込んでいく。

そんなトークライブでした。


ん……?
目の前で創りだされる小説があるなら、
“過去の”作品はどうなんだろう、ふと今思う。

豊かな土があるところから、豊かな実が成る。
土壌が肥えるためには、その土壌にそれまでどれだけの落ち葉や、
虫や動物たちの死骸が降り積もっているかにかかっている。

過去に途絶えたかにみえる生命が、
あたらしい種をやわらかくつつみ、芽を押し出す。
小説が生まれる場所というのは、そんな風に過去の作品から
生命力をもらっているような気がします。


***

葉も果実もそのうちに色あせ、簡単に枝から離れます。
けれども翌春にはまた、晴れ晴れとした緑の顔を枝先に出します。
もっとも移ろいやすく、もっとも「死」に近い末端の緑が、
その木が生きている、もっとも目を引きやすい証拠となる。

その様は、何千、何万枚の言の葉が繁った、大きな長編詩に似ている。
めざましい科学だけではすくいとれない生命の謎、ふしぎを、
人間はアナロジー、詩や音楽、絵画で探ってきました。
ゴッホの一枚、ランボーの一遍は、一片の葉にすぎませんが、
目を近づけると、その奥から、無限の森の姿が浮かび上がってきます。

(2011年1月12日 高知新聞 
     いしいしんじ「ことのはきのは」より抜粋)

***

その無限の森の姿を見てみたくて、わたしは絵を観るのかなぁ。
その森の中に迷い込みたくて、わたしは小説を書くのかなぁ。


小説が生まれる瞬間、過去に生まれた話をしたので、
最後は小説の最後の1ページの話。

思うんだけれど、小説の最後の1行を読み終えたとき、
その小説は本当に終わるのかな?

わたしは、自分の中に溶け込んでいくような感覚に陥るときがあります。
その本を読み終えた瞬間の、
時間、空気、音、匂い、想い。
そういった目に見えないものがひとつになって、
言葉と一緒に、自分の中に「たぷん……」と入っていく。
「たぷん……」と入った、と感じるときって、
物語の余韻があるときなんだと思う。
「あ、……」という瞬間。
陥っていく感覚。
わたしはその感覚がすごく好きです。

幹の中に水が流れているように、
自分の中にも物語が流れている、そんなイメージ。


ワイン飲んでいるので、酔ってます(笑) 
思うままに書きました。
おやすみなさい。

たぷん。